第一話 武藤喜兵衛の子
海野快斗と申します。なろう初投稿です、まだまだ仕様に慣れていないので誤字脱字等あればお教えください。
本作品はカクヨムにも投稿しています。当面はカクヨムの方に最新話がありますので、よろしければそちらもお読みください。
当面は毎日21時投稿の予定です
永禄十二年(1569)十一月、甲斐国・武藤屋敷。
晩秋の冷たい風が庭木を揺らし、色づいた柿の葉が一枚、また一枚と縁側へ舞い落ちていく。その縁側に腰を下ろし、庭を眺めながら武藤喜兵衛は小さく息をついた。
数日前、北条軍との三増峠の戦いで一番槍の功を挙げたばかりである。
御屋形様・武田信玄からも賞賛の言葉を賜り、家中では武藤喜兵衛の武名が大いに語られていた。
だが、その顔に勝ち戦の余韻はなかった。
「源七郎は……やはり外へ預けた方がよいのだろうか」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
喜兵衛には四人の子がいる。長女・まつ。長男・源三郎。次男・源次郎。
この三人はいずれも正室・山手殿との子であり、家中でも何ら憂いはない。
だが、昨年生まれた三男・源七郎だけは違った。その母は山手殿付きの侍女である。
山手殿が源次郎を身籠っていた折、酒席の勢いとはいえ侍女に手を付けてしまった。そして侍女は身籠り、男子を産んだ。
山手殿が最も可愛がっていた侍女であっただけに、その衝撃は計り知れなかった。
侍女は源七郎を産んでほどなく屋敷を去った。暇を与えられたとも、自ら姿を消したとも囁かれているが、真実を知る者はいない。
以来一年、山手殿は正室として源七郎を育てている。源三郎や源次郎と同じように接しようと努めていることは、喜兵衛にも痛いほど伝わってきた。だが、人の心はそう簡単には割り切れない。
源七郎を見るたびに侍女の面影を思い出すのであろう。笑顔の裏に隠された悲しみは、夫である喜兵衛にもどうすることもできなかった。
屋敷には重苦しい空気が流れていた。このままでは、誰も幸せにはなれない。
喜兵衛は静かに立ち上がると、山手殿の待つ部屋へ向かった。
襖を開けると、山手殿は幼い子らを相手に穏やかな笑みを浮かべていた。その傍らでは乳母が源七郎を抱いている。
喜兵衛はその様子をしばらく眺めていたが、やがて山手殿へ声を掛けた。
「少し話がある」
「はい」
二人は子供たちを残し、別室へ移る。向かい合って座ると、喜兵衛は一度言葉を選ぶように目を伏せた。
「源七郎のことだ」
山手殿の表情が僅かに曇る。
「何かございましたか」
「いや……源七郎が悪いわけではない」
そう前置きしてから喜兵衛は続けた。
「この屋敷も、今はまだよいが子らが成長すれば手狭になる。それに面倒を見る者にも限りがある」
それだけではない。
互いに口にはしないが、この子がいる限り屋敷の空気は晴れない。その思いを二人とも胸に秘めていた。
「そこでだ」
喜兵衛は山手殿を見据える。
「源七郎を、どこか信頼できる者へ預けようと思う」
山手殿はしばらく黙っていたがやがて静かに口を開く。
「……それが、あの子のためになるのであれば」
その声に怒りはない。だが、どこか寂しげでもあった。
「どなたに預けなさるおつもりですか」
「まだ決めてはおらぬ。これから探す」
「……そうですか」
それ以上、山手殿は何も言わなかった。
こうして源七郎を託す相手探しが始まった。まず思い浮かんだのは実家・真田家である。当主を務める長兄・信綱、そしてその補佐を務める次兄・昌輝。しかし今、真田家は上野・箕輪城を拠点に越後上杉家との戦に備えており、一歳の幼子を預けられるような余裕はない。武藤家の縁者も考えたが、それでは屋敷を移す意味が薄かった。
思案ばかりが募り、時だけが過ぎていった。
数日後
喜兵衛はいつものように躑躅ヶ崎館へ出仕していた。廊を歩いていると、一人の男が声を掛けてくる。
「難しい顔をしているな、喜兵衛殿」
振り向けば、出浦主水佐盛清がいた。武田忍びの三ツ者を束ねる頭領にして、信濃埴科郡に所領を持つ男である。互いに信濃の生まれということもあり、顔を合わせれば自然と話す仲であった。
「主水佐、今日は御屋形様へか」
「上杉の動きについて呼ばれておる」
「越中ではなかったか」
「もう越後へ兵を戻した、今度は上野を狙うようだ」
「兄のところか」
「攻め弾正殿は病と聞く、矢沢の一族も援軍へ向かっているようだが」
喜兵衛は苦笑した。
「父上は大事を取っておられるだけだ、兄ならば父の助けがなくとも戦える」
「違いない」
二人は笑い合う。
その時、喜兵衛の胸に一つの考えが浮かんだ。
――この男なら。
出浦盛清。
三ツ者を率い、人を見る目にも長けている。何より甲斐にも信濃にも人脈を持ち、源七郎を安心して任せられる。
「主水佐」
「何だ」
「折り入って頼みがある」
盛清は首を傾げる。
「我が三男、源七郎を預かってはもらえぬか」
突然の申し出に、さすがの盛清も目を丸くした。
「……それは、またどうして」
喜兵衛は源七郎が生まれてから今日までの経緯を隠すことなく話した。
山手殿とのこと。侍女のこと。そして、源七郎をこのまま屋敷で育てることへの不安。盛清は途中で口を挟まず、腕を組んだまま静かに聞いていた。
話し終えると、しばし沈黙が流れる。
「――なるほどな」
盛清は短く息を吐いた。
「養育に掛かる費えはすべて武藤家で持とう。元服の折には呼び戻す。それまでは、おぬしに預けたい」
「預かること自体は構わぬ。」
即答だった。
喜兵衛の表情がわずかに緩む。
しかし、盛清はなお言葉を続けた。
「されど、一つだけ気掛かりがある」
「何だ」
「この子が大きくなった時よ」
盛清は喜兵衛の目を真っ直ぐ見た。
「実家を恨むような子になってはならぬ」
その一言は、喜兵衛の胸に重く響いた。
「幼き頃に親と離れれば、『捨てられた』と思うやもしれぬ。そうなれば武藤家にも、いずれ戻ることはあるまい」
「……」
「わしは忍びを束ねる身だ。人の心を読むことも仕事のうち。幼子ほど最初に抱いた思いを一生引きずるものだ。」
喜兵衛は黙って聞いていた。それだけ盛清の言葉には重みがあった。
「預かる以上、わしは実の子と思って育てよう。しかし、折を見て会いに来い。文でもよい。武藤家は源七郎を見捨ててはいない、と分からせることが何より大切だ」
喜兵衛は深く頭を下げた。
「……かたじけない。」
「礼には及ばん。」
盛清は苦笑した。
「それに、子は宝だ。ましておぬしの子なら、ただの武士にはなるまい」
そう言うと、ふと何かを思い付いたように笑みを浮かべる。
「もっとも、忍びの里で育てば少しばかり悪知恵は付くやもしれんがな」
喜兵衛も思わず笑った。
「それくらいなら構わぬ。むしろ、この乱世を生きるには必要な知恵だ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合う。
その約束から半月後。
武藤屋敷の門前には、一頭の馬が用意されていた。馬上には盛清、その腕には厚い綿布にくるまれた源七郎が抱かれている。まだ一歳になったばかりの赤子は、何も知らぬまま盛清の胸で穏やかな寝息を立てていた。
屋敷の前には喜兵衛と山手殿、そして幼い兄姉たちが並んで見送る。
「……どうか、この子を」
「必ず」
そう言った喜兵衛に盛清は短く答えた。
源七郎は目を覚ますことなく、小さな手をふわりと動かした。それが別れの挨拶であったのか、それとも夢の続きであったのか知る者はいない。
やがて盛清は馬首を返す。冬の風が吹き抜け、馬の蹄が乾いた道を打つ音だけが響き、喜兵衛は、その姿が見えなくなるまで動かなかった。
「必ず迎えに行く」
誰に聞かせるでもなく呟く。その約束が果たされるのは六年後――武田家滅亡へ向かう激動の時代の只中であった。
注:出浦盛清がこの時期に主水佐を名乗っていたかどうかは定かではありません、対馬守あるいは上総介の説もあります。
また本来幼名で記すべき子供時代も読みやすさなどを重視し最初から仮名で表記するなど、名前に関しては分かりやすさ重視の対応をします。




