第八話【前編】
ハッピーエンド(主上×葵)です。
【ご注意 】苦手な方はご注意・ご自衛ください。
※妊娠・つわりに関する描写や、妊婦の身体的・精神的な負担を描くシーンが含まれます。
※ 計画的な偽装死(死を装う展開)およびそれに伴う不穏な話題を扱っています。
※ 光源氏に対する救いなし・因果応報表現がございます。
「い、今の歌は葵が詠んだのか。声も……まるで違う方のようであったぞ」
これほど青ざめたこの人の顔を、私は初めて見る。
私を苛む恐ろしい生き霊の正体に、きっと心当たりがおありなのだ。
……それならば、早くその方の元へ行き、お心を尽くして差し上げればよろしいのに。
「あ、い、いや……よく祈祷をしてもらいなさい」
逃げるように慌てて去っていく後ろ姿を冷ややかに見送りながら、私は衣の奥で春の宮様の護符を両手で強く握りしめた。
邪気を吸い取った護符は一層黒ずみ、握りしめた指の隙間から、身体中に纏わりつくおぞましい冷気が吸い取られていく。
胸にすっと息が通った束の間、冷たい恐怖が再び胸をよぎる。
この暗闇と苦しみが、あとどれほど続くのだろう。
(このままでは、もう……)
「お心を強く持たれませ、姫様。あなた様には、あの尊いお方がついておられますよ」
意識が遠のきそうになる私を包み込むように、乳母が温かな手で背中をさすり、あの人の匂いが宿る小袋──宮様の匂い袋をそっと握らせてくれた。
ふわりと鼻腔をくすぐる懐かしい香りに、涙がこぼれそうになる。
この腹に宿る春の宮様の尊い御子を、どうか守りきれますように。
そして願わくば……生きてもう一度、あの温かいお方にひと目、お会いできますように。
優しく微笑む乳母と深く頷き合い、匂い袋を固く握りしめて、我が子を宿す腹にそっと手を添える。
もし──もし、その先を望むことが許されるのならば、あのお方の元へたどり着き、今度こそ共に生きたい。
──『また、参る』
あの日交わした約束を、生きて、あの人に果たしてもらうのだ。
ただひたすらに、その思いだけを胸に抱きながら、私は悪夢の底へと身を委ねた。
◇
「未だ伏せっておられるのか……」
重々しい問いかけに、左大臣は深く眉間を寄せた。
「むしろ悪化しております。僧侶らの申すには、やはり強い執念を抱いた憑き物に寄るものと……」
「祈祷師を増やせ。……いや私が宮中から直々に遣わそう」
「真にありがとうございます。葵のためにそこまでお心を砕いてくださるとは」
「……例の護符は、肌身離さず持たせているな?葵の世話をよく焼く、あの年嵩の乳母がおったな。あれには護符の件を伝えてある。なるべく葵の側に添えるよう、計らってやってくれ」
「承知いたしました。……産み月も間近でございます。そろそろ、頃合いでございますな」
「そうだな。……折良く、秋の司召が近い。男どもはみな、人事に目を光らせて宮中に詰める時期だ。左大臣殿のご子息ら(頭中将たち)にも『良い話がある』と酒を振舞い、夜更けまで宮中に引き留めておくが良い。……その夜、屋敷の手薄になった隙を突く」
◇
激しい読経と祈祷が渦巻く嵐の中、葵は無事に元気な男の御子を産み落とした。
主たる男貴族たちが誰ひとりおらず、屋敷の手薄になったその隙に。
疲れ果てた高僧たちも無事の出産に胸を撫でおろし、束の間の休息を得ている間に──『それ』は静かに運び込まれた。
──真っ黒に染まりきった護符を裏返し、床の下に据えよ。そして、死を大波のように悼むのだ。
打ち寄せる生き霊の邪気を蹴散らし、秘術の仕掛けを終えた葵の乳母は、溢れ出る涙とともに叫び、思い切り髪を振り乱して嘆き悲しんだ。
「葵様!葵様が息をしておらぬ!ああ、恐ろしい生き霊めが、葵様を連れていきおった!ああ、なんということでしょう……!」
◇
急ぎ駆け戻ったものの、屋敷は深い悲しみの色に包まれていた。
葵の世話を手伝っていたという「遠縁の娘」も、また長年側に侍っていた乳母も、あまりの悲しみに気落ちして、奥の間で伏せっているという。
あの気高く美しい葵が、本当に亡くなったというのか。生まれたばかりの御子を私の元へと遺して、儚くなってしまわれた……。
(私が他所の女の元へ通い、あの方を寂しく冷遇してしまったからだろうか……)
あの日、六条のあの方が乗り移ったかのような、あまりにも異様で哀しい葵の声と歌が、今も耳にこびり付いて離れない。
葵が生前、「もし男の御子であったなら『夕霧』と名付けたい」と申していたと聞く御子。
腕の中で眠る小さく温かい我が子を抱き締めながら、光る君はただひたすらに、深い後悔と悲しみに暮れるのだった。




