第八話【後編】
女房に髪をそっと漉いてもらいながら、ぼんやりと庭を眺める。
これほど心穏やかな時間を過ごせるような日が来ようとは、夢にも思わなかった。
物の怪に侵され、ろくに食べ物も受け付けなくなっていた身体も、ここで静かに時を重ねるうちにすっかり癒え、この頃は膳をすべて平らげられるまでになった。
ふと、頭髪を漉く手つきが変わったことに気付く。柔らかく、けれど力強い、どこか愛おしむような指の感触。
「ようやく気付いたか。……体調はどうだ?」
驚いて振り返ろうとした瞬間、後ろから優しく抱きしめられた。
耳元で落ちる、低く甘い声。
「……また、参ったぞ」
包み込んでくれる大きな温かい手に、自らの手をそっと重ね合わせる。
「すっかりよくなりましたわ。昨日の夕餉も、最後まで美味しくいただきましたの」
身体の力を抜き、そっと後ろの胸元へ頬を寄せて、思いきり息を吸い込む。
薫物の甘い香りが深く鼻腔を満たし、それだけで心が体の芯から解けていくのが分かった。
(……少々、慎みがなさすぎただろうか)
照れくさくなり、身体を起こそうとすると、さらにぎゅっと強く抱き締め返された。
「そのまま、思うままに過ごすが良い。……私は其方を存分に甘やかすために参ったのだから」
どこまでもお優しく、深い労りの宿るそのお言葉に、胸の奥で頑なに強張っていたものがふわりと解れていく。
人目や身分、正妻としての立場を気に病み、つい意地を張ってしまう私であったけれど──このお方の底知れぬ温もりの前では、驚くほど自然に素直な言葉が唇をついて出てしまう。
「……庭へ、出てみたいです。ほんの少しでよいのです。あのもみじ葉の足元へ」
「わかった。こちらへ参られよ」
どのような我儘も優しく受け止めてくださることに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
言われるまま側に近付くと、突然、体がふわりと宙に浮いた。
心許なくて首を掴むと、「しっかりと掴まっておれ」と愛おしそうに囁き、御自ら抱き上げて、もみじ葉の元へと降ろしてくださった。
もみじ葉が風に揺れる様を、二人でゆっくりと眺める。
「美しゅうございますね」
「ああ」
一つ、二つと中でも一際美しい葉を二人で拾い、中へと戻った。
◇
あれから二ヶ月が過ぎた。
秘密の隠れ家へ届く二条の彼方からの噂で、輝くお方が早くも再び妻を迎えたことを知る。それも何年も前から囲っていたとかいう、年端もいかぬ姫君を。
「『お義父上』、扇がお可哀想ですわ」
表向きの立場に倣ってそう呼びかけると、手の中でめりめりと音を立てていた父の扇が、ぴたりと止まった。
私は苦笑しながら、乳母が抱く『忘形見』──夕霧と名付けられた我が子を見つめる。
健やかに眠る御子の寝顔が、その場の固い空気をふっと和ませてくれた。
「この子を置いていくのが気がかりです」
「私と乳母に任せなさい。いつでも其方の元へ連れていってやろう。……母恋しさに、面影のある方に子は懐くものだ。そのような物語は、宮中にはいくらでも転がっている。藤の花を好んで手折った皇子もいれば、双葉葵を慕う御子もおるだろう。この子はあくまで『左大臣家が預かる光る君の御子』なれば、誰も怪しむまい。心配はいらないよ」
◇
左大臣に付き従い、しとやかに俯きがちに回廊を進む姫君。
遠縁というが、まことに品格があり、美麗であったという大臣の亡き娘によく似ていると、宮中の人々は息を呑んで噂し合う。
その日、朱雀帝の元に一人の美しい娘が出仕した。
◇
「お噂とは全然違いますのね」
少しばかり唇を尖らせてそっぽを向く姿に、胸の奥が疼く。気高き姫君が魅せるこのわずかな拗ね顔こそ、自分だけが知る最高の宝物だ。
「……内侍のことか?敢えてそのままにしてあるのだ」
「……?」
「其方の部屋が彼女の房の先の先にあるものでな。世間には、私が彼女のもとへ入り浸っているように見せかけている」
戸惑う葵を膝の上にすっと抱き上げ、その耳元へ唇を寄せた。
「前にも申したが……どなたかの恋物語は、大切な宝物を隠すのにちょうど良いのだ。それに噂の真実は、其方もよく知っているだろう?先日、遣水の木陰で密やかに逢瀬を楽しんでいたのは……私たち二人ではないか」
「確かに……そうでございました」
葵が真っ赤になった両耳を小さな手で隠し、気まずそうに視線を逸らした。
その照れた様子があまりにも愛らしくて、思わず口元が緩んでしまう。
「私には、其方しか見えておらぬ」
観念したように縮こまる細い腰を引き寄せ、逃さぬようその唇を甘く塞いだ。
◇
「久しいな。華々しい噂は聞いているが……新たに妻を迎えられたそうだな」
「は。互いにめでたいことでございます」
「私もあなたも……執着が深いな」
扇の下で、どこか自嘲めいたため息をもらす。
「忘れられぬ方の面影だけでも、側に置いておきたいのだ……」
その時、侍従が静かに近づき、耳元で短く言葉を交わした。
「何?葵が……。わかった、すぐに行く」
扇をすっと閉じ、光る君へと視線を戻す。
「宮からの許しも出たそうではないか。せっかくの縁だ、くれぐれも大切になされよ。……では、これにて」
「お、お待ちください、主上。……今、葵様と、おっしゃいましたか」
「……庭に葵の咲く間に暮らしておるから、そう呼んでいるだけだ」
「亡くした私の妻に似ているとも聞き及びます。一度、お目にかかることは──」
「新妻が待っていらっしゃるのではないか?早く帰ってやるといい」
食い下がろうとする光る君の言葉を途中で遮り、早々に帰宅を促す。すれ違いざま、たたんだ扇の下に、隠しきれぬ冷ややかな苛立ちを込めた。
(──亡くしただと?自分が追い詰め、見捨てたのだろうに。誰かのもの、あるいは隠されたものと知れば途端に執着を示すあの男……今更興味を持たせるわけにはいかぬ。不愉快極まりない)
◇
御簾をくぐり部屋へ戻ると、葵が静かに立ち上がり、出迎えてくれた。
「何かよくないことがおありでしたか」
気持ち一つ収められず、眉間に皺を寄せていたのだろうか。
「……すまぬ。気付かれてしまったか」
苦笑しながら葵の細い肩を引き寄せると、彼女は心配そうに私を見上げてくる。
「未練がましい男がいただけだ。其方が気にかけるようなことではない」
「あの方に……お会いしたのですか」
「……義弟であるからな。会わぬわけにもいかぬ」
「申し訳──」
言葉を遮るように葵の唇を、強引に塞いだ。
わずかに息を呑む気配を感じながら離れると、葵の頬にそっと手を添える。
「謝るな。余計なことを考えなくて良い……あの男の影など、其方の心の片隅にでさえ置かせたくないのだ。……心の狭い私を許せ」
葵がぱちぱちと目を丸くする。
「まあ……嫉妬でございますか」
悪戯っぽく微笑みながらも、凛とした美しい瞳で私をまっすぐに見据えてくる。
「片隅にもおりませんわ。そもそも私には『元夫』などおりません。どうぞ御心のままに」
「葵……多少の毒は……もう要らぬ」
「では南天を山ほど生けてくださいませ、主上」
──豪奢な山吹の前に、慎ましやかに凛と葉を尖らせた南天。
あの時のちぐはぐな組み合わせを思い出し、二人で笑い合う。
庭へ視線を向けると、遣水の流れる向こう側にすすきが静かに揺れている。
夕霧が立ち込める様を二人で肩を寄せ合って眺め、穏やかな時が過ぎていく。
やがて、深く優しい夜の帳が降りてくる。
──葉陰の蕾が咲く頃に。巡り来る春を待ちながら、双葉葵は誰にも邪魔されぬ深い陰で、そっと葉を寄せ合っていた。
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