第七話
【ご注意(R15)】
※妊娠・つわりに関する描写や、妊婦の身体的・精神的な負担を描くシーンが含まれます。苦手な方はご注意ください。
「あのお方は……葵がこれほど苦しんでいるというのに、またしても他所の女の元へ向かわれたのか。我が家門の後ろ盾をなんと心得ておられるのか……」
左大臣の絞り出すような怒りの声に、春の宮は静かに、けれど氷のように冷たい眼差しで頷く。
「……左大臣殿。あのような男にこれ以上葵を任せてはおけぬ。世間の嘲笑も、光る君との軋轢も、すべて私が引き受けよう。葵を、私の元へ渡してはくれまいか」
「……しかし、それでは世間の口さがない人々が……」
実際問題、葵がこれ以上辛い思いをするのは耐えがたい。……だが、人目を憚らず奪うわけにもいかぬ。どうしたものか。
「ふむ……。では絵巻物に詞書でも添えようぞ。……左大臣殿の遠縁に、葵によく似た娘がいると聞く。近々、後宮へ出仕させよ」
「はて。そのような話は……」
首を傾げる左大臣に、春の宮は静かに視線を落とし、さも世間話のように呟いた。
「子を産み落とすは、時に大層な困難も付き纏う。……あるいは、惜しくも儚くなってしまうお方もおられるな」
「な……!」
左大臣が愕然として言葉を失う。
春の宮は自嘲気味に、だが深く切実な響きを帯びた声で言葉を重ねた。
「私は父譲りの意固地なところがあるらしい。其の方もよく存じているだろう。……十年も昔から諦めきれずにいる女子がおってな。今更叶わぬ夢なら、せめてその面影の似た者を側に置き、心の慰めとしたいのだ。かの桐の代わりの、藤の花のように、な」
春の宮はそこで一度言葉を切り、どこか遠くを見るような眼差しで静かに呟いた。
「……双葉葵の花を見たことがあるか。あの花は、大きな二枚の葉の陰に、そっと隠れるようにして咲くのだ。……大切なものは、そうして人目に触れぬ最奥に隠してしまえば良い」
「……!」
左大臣の息が止まった。
桐の代わりの、藤の花。そして、葉の陰に隠される──双葉葵。
十年も昔、この若き宮からの打診を断り、源氏の君へ葵を嫁がせた日のことが脳裏をよぎる。
目の前の男は、「面影の似た遠縁の娘」という葉を覆い被らせることで、葵という存在そのものを世間から隠し通すつもりなのだ。
静かに自分を見つめ返す春の宮の瞳には、一切の揺らぎもない。
じっと対峙していた左大臣はやがて深く目を瞑り、絞り出すように重々しく頷いた。
「……今は娘の出産を控えて何かと慌ただしく……ですが……。そうですな。急ぎかの者を呼び寄せ、行儀見習いといたしましょう。娘が出産を果たす頃には、すっかり整いましょうぞ」
「ああ、宜しく頼む。こころ安らかに過ごせるよう、くれぐれも娘御に心を尽くしてくれ」
「……葵のことで、一つ相談が御座います」
◇
「ああ、そのままでよい。動くな……私が行く」
寝所に滑り込んだ春の宮は、苦しげに息をつく葵の手をそっと包み込んだ。
「近頃、夢見が悪いそうだな」
「……宮様が気になさるようなことではありませぬ」
「私は些細なことでも知りたいと思うぞ。其方がそのように私を心配してくれるように、私も其方が心配なのだ」
「……ありがとうございます」
「其方だけでなく、女房らにも妖しげな気配が見えるとあれば……生き霊かも知れぬな」
「恨まれるようなことなぞ、何一つ……もしや、あの方の……」
「まあ、彼方此方とよろづに辛い思いをしている方がおられるのだろう……なんとも嘆かわしいことだ。……心配せずとも、あの男など熨斗鮑でもつけて進呈してやるというのに、我が愛しい人を脅かすなど許しがたい」
春の宮は呆れたように一蹴すると、気を取り直したように優しく微笑んだ。
「……今日は、これを其方に渡しに来たのだ」
袂から取り出されたのは、比叡山の高徳な阿闍梨に特別に頼み込んで授かったという、重々しい護符だった。
「高僧からもらったものだが、以前、夜盗が切り付けてきた折も此に守られた。……手に持ってごらん」
葵がそっと手に掴んだ途端、護符の端がジリリと黒ずんだ。背筋が凍るような冷気が、手の中で消えていく。
それを見ていた春の宮は、険しい眉をさらに顰めた。
「やはり、ただの悪寒ではなかったな……。肌身離さず、必ず持っていろ。ずっと付いていてやりたいが、宮中の務めがあり、そうも行かぬのがもどかしい」
春の宮は葵を優しく抱きしめ、ふっくらとしたその腹にそっと温かい手のひらを添えた。愛おしそうに、まるで壊れ物に触れるかのように撫でる。
「……早くこの手に、其方との間に生まれた子を抱きたいものだ」
耳元で囁かれる低く温かい声に、葵の胸が熱くなる。
「子どもはもちろん愛おしいが……今は其方だけでも、今すぐに連れ去って、私の側に繋ぎ止めてしまいたいぞ」
冗談めかしながらも、その瞳には溢れんばかりの情熱と甘い愛おしさが宿っていた。
春の宮は葵の手を両手で包み込むと、愛おしむようにぎゅっと力を込めた。葵もまた、その温もりに縋るように、かすかにその手を握り返す。
冷えていた指先から、春の宮の確かな体温と強い意志が伝わってきた。
「……また参る」
旅立つ前の誓いのように呟くと、春の宮は葵の体を優しく引き寄せ、その額にそっと、触れるだけの静かな口付けを落とした。
額に残る温かい感触と、耳元に残る『また参る』という言葉。
孤独な闇の中で怯えていた葵の心は、今や春の宮という絶対的な光と絆で、どこまでも満たされていた。




