第六話
【ご注意(R15)】
※妊娠・つわりに関する描写や、妊婦の身体的・精神的な負担を描くシーンが含まれます。苦手な方はご注意ください。
「賀茂の祭へ……行かれるのか」
葵が静かに目を伏せる。
「母上までも、お家と正妻の体裁をと申すのです……私とて気が進みませぬが、致し方ありませぬ」
「あの方も、其方がこのような身である時に大祭の禊の大役を引き受けられるとは。……くれぐれも無茶はせぬよう、心安らかにおられよ」
春の宮様は心配そうに眉をひそめると、葵の手にそっと小さな匂い袋を握らせた。
「どうしても心配でならぬ……許されるなら、私が側について連れて行ってやりたいほどだ。……これを、私だと思って持って行くといい」
◇
人混みの熱気とざわめきに、牛車の中にいながらも顔色が青ざめていく。
場所が定まらぬのか、のろのろと動いたかと思うと止まる。身を削るような車の揺れに、何度も激しい吐き気が襲う。
慌てた女房が扇で風を送ってくれるが、胸のむかつきは一向に治まらない。
「後からやって来たのは我々ではありませんか……私は争ってまで、割り入って見たいとは思いませぬ。……もう、帰りましょう」
「何をおっしゃいます、ご正室様。お心を強く持ち、堂々と御夫君の晴れ姿をご覧なさいまし!」
その時、外で荒々しい怒鳴り声が響いた。
他家の牛車と押し問答になったかと思うと、大きな衝撃と共に車が激しく揺れ、ギィと悲鳴のような音を立てて強引に動き出す。相手の車の副木がへし折られる凄惨な音が、車内にまで届いた。
あまりの恐ろしさと人々の醜い争いに、いっそう気分が悪くなり、視界が歪んでいく。
(……宮様……助けて……)
遠くから、光る君の到来を告げる華やかな歓声が聞こえてくる。
沿道の羨望を一身に集め、絢爛豪華な装束を纏ったあの人は、こちらに気付くと気高く優美に微笑み、正妻の車へと会釈してみせた。
光り輝くその笑顔に、一際大きな歓声が上がる。
気が遠くなりかける意識の中、葵はただ必死に、胸元に隠した春の宮の匂い袋を強く、強く握り締めた──。
◇
「……それで、葵は無事なのか。……この目で直に確かめるまでは片時も安心できぬ」
春の宮は手にしていた報告の文を思わず硬く握り潰した。
「宮様、この後、太政官との重要な朝議の申し合わせがございます」
「……なんとかならぬか?朝議を繰り上げることはできぬか」
「さすがにそれは……ですが、朝議が終わり次第、その後の御予定はすべて日延べいたしましょう」
それでも夕刻になってしまうか……今すぐ葵の元へ駆けつけたいところだが、宮中の公務を放り出すわけにもいかぬ。
「頼む。……『必ず今宵、お見舞いに伺う』と、左大臣殿へ至急使いを走らせよ」
◇
(……雨か。葵がさぞ塞ぎ込んでいることだろう)
立ち込める暗雲を見上げ、春の宮は苦々しく呟く。
聞きたくなくとも、耳に入ってくる街の噂はあまりにも無残で酷いものであった。
正妻と愛人の車争い──あろうことか、当の光る君は傷つき倒れた葵を顧みようともせず、左大臣邸を素通りしてそのまま例の女の元へ向かったという。
無理を押して務めを果たした正妻へ、体面さえも繕わぬとは。
(なんたる無神経な暴挙か……左大臣殿が血涙を流すほど激怒されるのも当然だ)
葵は、かように蔑ろにされてよい女性ではない。
ましてや今は、我が子をその胎内に宿している身重の身体なのだ。
……どれほど恐ろしい目に遭い、どれほど惨めで辛い思いで泣いていることか。
(今すぐに駆けつけて、その肩を抱きしめてやりたいのに……ままならぬ)
宮中の儀礼や公務に縛られながら、春の宮はひたすら日暮れの刻を待ちわびていた──。
◇
激しい雨が左大臣邸の屋根を叩く夜。 燭台の灯りが揺れる密やかな寝所で、葵は悪夢と悪阻の苦しみに耐えながら、ひとり身を丸めていた。
あの人は昨夜、自分の元ではなくあの女の元へ向かったことも知っている。
正妻への対外的な儀礼こそあれ、結局私は顧みられることもない。
私があのお二人の間を邪魔しているのだろう。邪魔などするつもりはない。私と春の宮様を引き離したのは、あの人だと言うのに。……ままならない。
(……この身がどこまでも惨めで辛い……もういっそ……)
そう涙をこぼした瞬間、激しい雨音を割って、衣の擦れる音が近づいてくる。
寝所の御簾が静かに上げられ、そこに立っていたのは春の宮様だった。
雨を突いて駆けつけたらしく、静かな佇まいの裏にどこかかすかな息の乱れを覗かせている。
「……また、参ったぞ」
驚きに目を見開く葵の頭を、春の宮は愛おしそうに、ゆっくりと撫でた。
「よくないことを考えている顔だな……心安らかに……はおられなかったな。遅くなってすまぬ」
「……来てくださったのですね」
「参ると言ったであろう。何度でも」
春の宮様の優しい手から伝わるかすかな雨の冷気に、目から涙が溢れ出す。
頭を撫でていた手をそのまま肩へ伸ばしかけ──そして、ハッとその手を止める。
「このように濡れてしまっては、近づかぬ方がよいな。其方が冷えては困る。……無事な姿をひと目見たかったのだ。温かくして、くれぐれもゆっくりと休まれよ」
忙しい合間を縫い、雨を突いてまで来てくださった。それなのに、どこまでも私を慈しみ、自らを後回しにして気遣ってくださる。
この温かな優しさに縋ることが、罪だと言うのだろうか。
「では……では、宮様が温めてくださいませ……」
足を一歩引かれた春の宮様に、堪らず縋りついてしまう。
息が止まったように春の宮様が目を見開いた。
「……私の心も、身体も……既に冷たくて眠れませぬ。……どうか、宮様……」
「……葵……!」
もう、理屈も分別も要らなかった。春の宮様は冷えた衣のことなど忘れたように、葵の華奢な肩をかき抱き、包み込むように強く、強くその温もりを重ね合わせた──。




