第五話
【ご注意(R15)】
※妊娠・つわりに関する描写や、妊婦の身体的・精神的な負担を描くシーンが含まれます。苦手な方はご注意ください。
「ああ、起こしてしまったか、すまぬな」
温かな腕の中で目が覚める。まるで夢の続きのような心地よさ。
この頃、どうにもひどく眠い。今も春の宮様と庭を眺めているうちに、いつの間にかうたた寝をしてしまったらしい。
「私としたことが……お側におりながら、不甲斐なく……申し訳ございません」
「よいのだ。体を労われと、あれほど申したであろう」
優しく微笑みながら、髪を撫でてくださる手が心地よくて、ついまた小さく欠伸が漏れてしまう。
春の宮様は私の手を握り締めると、愛おしそうに、けれど心配そうに顔を覗き込まれた。
「それにしても、やはりどこかお身体が悪いのではないか。一度、薬師を寄越すとしよう。……其方のお父君には、私からしかと伝えておく」
「そこまでお気遣いくださるのでしたら……ありがとう存じます」
◇
「懐妊とな!これはめでたい、誠におめでたいことだ!」
弾んだ声が響く。この人がこれほど素直に喜ぶとは、思いもしなかった。
だが──手を差し伸べようと近寄ってきた瞬間、彼から立ち上る強い薫物の香りに、不意に胸が激しくむかついた。ここへ来られる直前まで、一体どなたの元へ寄っておられたのやら……。
急激に顔色を失った私に慌てた女房が、すかさず扇で風を送ってくれる。冷たい風に、幾分か胸の悪さが落ち着いた。
「無理をせず、ゆっくり休むといい」
満足気な顔でそう言い残し、あの人は去っていった。
◇
「そうか……重い病などではなくて安堵した。くれぐれも無理はせず、心安らかにおられよ」
春の宮様がそっと、衣を一枚、私のお腹の上に掛けてくださる。その温もりがじんわりと伝わってくる。
(……一体、どちらのお子なのか)
考えても答えなど出るはずもない。けれど、頭から離れない恐ろさと不安に、胸が押し潰されそうになる。
ふいに、肩が温かくなった。見上げれば、春の宮様が静かに寄り添い、愛おしむように肩をそっと抱き寄せてくださっていた。
「子を無事に産んだなら……後宮に上がらぬか。名目など、命婦でも内侍でも……いくらでもどうとでもなる」
息が止まるかと思った。私のような身で、そのようなことが許されるのだろうか。
「私が、そのような果報を望んでも……本当によいのでしょうか」
「十年の年月が経ったのだ。もう、我慢など要らぬのではないか。……お父君には、実はもう話してある。随分と渋っておられるがね……いずれ、必ず頷かせてみせる」
春の宮様は慈しむように私の手を包み込むと、静かな声で言葉を継がれた。
「……人目の届かぬ後宮のひっそりとした奥処に、ひとつ小さな部屋を用意してあるのだ。其方を想いながら私があつらえ、時折ひとり静かに過ごすための場所をね。その庭には、双葉葵と南天を植えさせてある」
「双葉葵と……南天を、でございますか」
葵は驚きに息を呑み、静かに目の前の庭へと視線をやった。
後宮の奥深く、ひっそりと佇むその小さな部屋──見えぬはずのその場所に、春の宮様がどれほど深い愛を注いでくださっていたのか。
あふれる想いに胸が押し潰されそうになり、熱い涙がひとすじ、瞳からこぼれ落ちる。
「ああ。遣水が流れる穏やかな庭でね……夕暮れ時に訪れると、あたり一面にふわりと優しく夕霧が立ち込めるのだよ。それを見るたび、いつか其方と二人で、この静寂を眺めたいと切望していた」
春の宮は、こぼれた涙を優しく吸い取るように葵の美しい眦へそっと唇を寄せた。そのまま葵の視線の先──夕闇に溶けてゆく庭へと静かに目を向けながら、彼女の手を包み込み、慈しむように撫でる。
『光る君』──世の人々が誰をそう呼ぼうとも、自分を暗闇から照らし、救い出してくれる『まことの光』は、今涙を拭ってくださるこのお方ただ一人なのだと、葵は心の底から噛みしめていた。
遣水、双葉葵、そして深く立ち込める夕霧──。春の宮様が私を想い、ひとり静かにその部屋で過ごされていた姿を思い描き、胸の奥が熱く疼く。
『葦の葉に 夕霧立ちて 鴨が音の 寒き夕し 汝をば偲はむ』
胸の中でそっと、万葉の古い歌を口ずさむ。厳しい寒さの夕暮れ、立ち込める夕霧の中で、ただ一筋に愛しい人を想う歌──。
「……『夕霧立ちて……汝をば偲はむ』。あなたがそれほどまでに私を想い待っていてくださるのですもの。いつか二人でその美しい景色を見る日まで、私は心安らかに過ごせそうですわ」
「ああ……必ずや、その日を引き寄せてみせる」
重ねられた二人の手が、解けることのない絆を示すように、そっと強く握りしめられた──。
『葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕し汝をは偲はむ』
『万葉集』に収められている歌巻十四-3570を引用しています。作者不明の東歌です。
葦の葉が繁る水辺に夕霧が立ち込め、鴨の鳴く声が響く寒くなってきた夕暮れ時に、あなたを思い出しています。といった意味です。




