第四話
「山吹をあえて奥に添えて、この白花を立てるとは……趣向を凝らした生け方をするものだな」
部屋に入るなり、まず花へ目を向けられた。
葵はすっと扇を広げて顔を隠し、静かに目を伏せる。
「……多少の毒は、思いを募らせるものでございますから」
「……この花は、あなたのためだけに選んだものだ。余計な心配などしなくていいのだよ」
この頃、急に通いが増えた……。そのせいで、あのお方と密にお会いする機会が減ってしまう。葵の胸からつい、重い吐息が零れ出た。
物思いに沈む葵の傍らで、慣れた手つきで紙に向かい、すらすらと文字を走らせている。
やがて侍従が恭しく文を受け取り、部屋を出て行った。
──今宵はどなたが、待ちわびた末に涙に暮れるのか。
(……今日もここに泊まるおつもりなのかしら)
強く引き寄せられ、葵は拒むこともせず静かに目を閉じた。
頭に浮かべるのは、山吹の前に生けた小さな白い花──南天。あのお方は今頃、後宮で六の姫とお過ごしなのだろうか。
『私の愛は増すばかり』……密かに共有した毒のような情熱が、春の宮への思いをどこまでも募らせてゆく。
◇
花の生け方ひとつで意趣返しとは。気位の高い姫が、私の気を引こうとなんとも愛らしい嫉妬をしてくれるではないか。
物思いに憂う横顔、どこか陰りを帯びた匂い立つような色香。……以前から、これほど魅惑的な人だったろうか。
夫婦として堂々と通える仲だというのに、まるで許されぬ忍び逢いを楽しんでいるかのようで、たまらない高揚感が突き上げてくる。
今宵も、このまま泊まっていくとしよう。
だが、ふと外を見やれば、雲が月を隠してしまっていた。……私を待つ方が、あの陰った夜空を見上げて寂しがっているかもしれない。
私は硯を引き寄せると、相手の心に寄り添うようにしっとりと墨をすり、一首の和歌を走らせた。
『雲がくれにし 今宵の月……』
(夜が明けたなら、必ずやあなたの元へ参りましょう)
これで、私が訪れるまでの幾らかの慰めになろう。畳んだ文を侍従に預け、満足して葵のもとへ向き直る。
案の定、彼女はすっかり機嫌を損ねたように顔を背けていた。あの白い小花に込めた嫉妬の続きか……ふっ、悪くない。
「待たせてしまったね、私の可愛い人……」
◇
夜が明け、あの人が満足そうに去ったあと。
部屋に残された葵の耳底に、いつまでも静かに残り揺れていたのは、彼が侍従に預けたあの文の詠み出し──『雲がくれにし 今宵の月……』であった。
(ああ……あのお方も、かつて同じ歌を私に送ってくださった)
静まり返った部屋で、葵は一人、大事に仕舞い込んであった文箱を開ける。
取り出したのは、かつて春の宮から贈られた、少し色褪せた一筋の文。
『雲がくれにし 今宵の月を──』
──あの夜、あなたが私の元を去り、他家に嫁いでしまわれてから、私の夜空からは月が消えてしまいました。
(あの人は別の女へ言い訳するために詠み、あのお方は私を失った絶望の中でこの歌を詠まれた……)
同じ言葉でありながら、そこに込められた情の重さは天と地ほども違う。
葵がその文を胸に抱きしめ、昔の思い出に耽っているところへ、気配もなく春の宮が現れる──。
「輝く方は、すっかりあなたにご執心のようだね」
気配もなく忍んできた春の宮様が、庭から詰んできた南天の枝を手にぽつりと呟く。
色が褪せてきた山吹を自ら花器から取り払うと、そこに南天の枝だけを、慈しむように生けてみせた。
「何の花が飾られようと、南天だけが心にありましたわ」
「私の心の思いも増すばかりだよ。……文を読んでいたの?」
衣の向こうでかさりと音がなったのを気にしておられる。
「……昔の文でございます。折々に見返しては、心の支えにしております」
「私の文ではないか。……なんとも若い文を……今になっても読んでいらしたのか」
照れくさそうに、けれど嬉しさを隠しきれずに微笑む春の宮に、葵はそっと目を伏せる。
「私の心は、ずっとあの頃のまま止まっておりますもの。……おすりいたしましょうか」
そう言いながら、葵は返事を待たずに静かに硯に向かい、細い手首で滑らかに墨をすり始めた。
春の宮は、傍らに置かれた色褪せた文に目を留める。自身がかつて贈った拙い一筋の文──そんなものを今も大切に胸に抱き、こうして熱心に文を書く準備をしている。
それでいて、「新しい文を書いてほしい」などとは一言も口にしない。これほどまでに甘やかで、いじらしいおねだりがあろうか。
春の宮はその傍らにそっと腰を下ろし、立ち上る濃い墨の芳香と、美しく磨ぎ澄まされた黒を、愛おしそうに見つめた。
(……本当に、どこまで可愛らしい人なのだ)
愛おしさに胸を突かれた春の宮は、ぽつりと呟く。
「……まるで、其方の美しい黒髪のようだな」
春の宮は葵の背に流れる豊かな髪へとそっと指を滑らせた。不意に触れられた体温に、葵の胸が大きく跳ねる──。
触れられた背から広がる熱に息を呑む。それでもどうにか心を落ち着かせて墨をすり上げると、葵はそっと筆を手に取った。その様子を愛おしそうに見つめていた春の宮は、葵の耳元へ顔を寄せ、囁くように言う。
「そんな昔の拙い歌を慈しんでくれたお返しに……いまの私の思いを込めた、新たな歌をすぐに贈るとしよう。だがその前に──」
春の宮は、筆を持つ葵の手にそっと自分の手を重ね包み込んだ。そのまま昔の文の余白へと、二人で静かに筆先を降ろしていく。
「まずはこの止まったままの歌に、いまの私たちの続きを書き添えようではないか」
「雲がくれにし……かつてあなたを奪われた夜、私は月を見上げて絶望していた」
「ええ……。ですが、いま月影の行方を知る者は、この世にただひとつ」
すり上がった墨の芳香が立ち込める中、春の宮が優しく葵の頬を撫で、昔の文の余白へ歌の続きを書き添える。
『月影の ゆくへを知るは 唯ひとつ
赤き実のみぞ 深く染まりて』
(月がどこへ隠れようと、その真の姿を知るのは、二人の胸の中で赤く燃えるような南天の実だけなのだから)
「……あの人がどれほどあなたを囲い込もうと、あなたの真の居場所を知っているのは、私だけだ」
「……はい。御心のままに。この身も、心も、すべてあなたのお手の中に」
忍び逢いの深い闇の中、重なり合う二人の影が
静かに溶けていった──。




