28.5話
リビングのドアを開けると、妹が飼い猫の平蔵とボクシングをしていた。……ボクシング???
「おかえりー」
「ただいま。……何してるの?」
「ボクシング?」
「猫と……?」
「平蔵くん、最近ハマってるんだよ」
ねー、と微笑みかけながら妹がリズミカルに軽く拳を突き出すと、平蔵がそれにたん、たん、と前足を合わせる。
……うん、まあ、楽しそうで何より。
「あ、お風呂もう入ったから、出たらお湯抜いておいてね」
「ん、わかった」
それだけ言うと、妹は平蔵とのボクシングに戻った。
平蔵は2人暮らしの妹に寂しい思いをさせないように飼い始めた子だが、予想以上に仲良くなったようだ。元々面倒見のいい性格だから、子猫との相性はよかったのかもしれない。
自室の電気をつけ、ドアに鍵をかける。普段はかけないが、今は独りになりたかった。
バッグとスーツの上着を放り投げ、ベッドに倒れ込んだ。
メイクぐらい落とせとかスーツがシワになるとか理性が訴えてくるが、どうにも動く気力がわかない。
父親と直接顔を合わせたのは、いつぶりだっただろうか。いつもは事務的なメールをやりとりするだけ。
そんな中に、ひとつだけ紛れ込んでいた「再婚するので、顔合わせをしたい」という連絡。
妹のことには触れられていなかった。確認したが、連れてこなくていい、と返事が来た。
新しい家族とは、父の勤務先にほど近いレストランで対面した。個人経営らしい素朴な店だが、暖かみのある内装で雰囲気も良く、味も悪くなかった。
久々に会う父は以前よりも少しふっくらとして、表情からも険のようなものが取れていたように思えた。以前はエリート銀行員として出世レースに明け暮れ、いつも眉間にシワが寄っているような人だったが、地方勤務に左遷されてから逆にプレッシャーから解放され、気が緩んで楽になったのかもしれない。あんなに朗らかに笑う父は幼い頃以来久々に見たと思う。
再婚相手の女性は少し痩せているが、穏やかな雰囲気の優しそうな人だった。年相応に落ち着いた髪型と服装は母とは真逆だ。
連れ子の女の子は高校生らしい。かわいらしくはあったが随分と素朴な子だ。あたしを見て目を輝かせながら、お姉さんカッコいい! 憧れちゃう! と称賛してくる。悪い気はしないが、18歳にしては幼いなと感じ、すぐに思い直す。妹が大人びているだけで、この年ごろの女の子なんてこんなものだろう。
会話の内容はありきたりなものだった。再婚の経緯から始まって、お互いの好きなものとか、仕事の様子、生活について。家族のする、当たり前の会話。
優しい人たちなのだろう。きっと、穏やかで温かい家庭を築くのだろう。
だからこそ、あたしには残酷に思える。優しく温かい家族の団らん。妹が失ったもの。おそらくこの先も取り戻すことは叶わないであろうもの。
よりによって高校生の娘がいる相手と再婚など、妹に対する当てつけとしか思えなかった。被害妄想であることはわかっていたが、その考えを拭えない程度にはあたしは父を信用していない。
──15歳の女の子を独り置き去りにして逃げた男のことなど、誰が信じられるだろうか。
1人暮らしには広すぎたあの家で、妹が何を想い、どう暮らしていたのか、考えないわけではなかっただろうに。
姉のあたしでさえ、卒論と就活に追われていた頃でも、あの子のことを気にかけない日はなかった。
母のしたことを思えば気持ちが理解できないわけでもないが、だからといって妹など最初からいなかったかのように扱うのは納得できるはずもない。
★
いつの間にかウトウトとしていたようだ。
一休みして少しだけ動く気力が回復したので、風呂にでも入ろうと立ち上がる。
スーツをハンガーにかけ、ブラウスをたたんでクリーニング用のカゴに仕舞い、部屋を出る。
下着姿でウロついていると妹から乙女がどうのと文句を言われるが、自分の家なので問題ないだろう。本来なら下着もすぐに脱いでしまいたいところだ。
熱いシャワーを浴びてゆっくりと湯船に浸かり、少し鬱屈とした気が晴れた。
妹に怒られないようにお湯を抜き、軽くシャワーで流しておく。
麦茶でも飲もうとキッチンに入ると、併設のリビングのソファで妹が寝ていた。猫と一緒に丸まっているその姿は、年の離れたきょうだいのようにも見える。
枕元に座って、ゆっくりと妹の柔らかな髪を撫でる。
高校生になってから随分と前向きになった。苦手だった勉強も頑張っているし、友だちも多いようだ。家事も率先してやってくれるし、料理の腕はもう敵わないかもしれない。事あるごとにあたしへの憧れを口にするのはかわいらしいが、同時に面映ゆくもある。
偶然からではあったが、今年は大人の知り合いも増えた。頼りになる大人が増えるのはいいことなのだろう。保護者として努めてはいるが、姉は姉だ。母親にはなれない。足りない部分は仲間に補ってもらえばいい。玲花の悪癖は少し心配だが、道理が通らないほど破天荒な子でもないので大丈夫だろう。
VTuber活動も最初こそ戸惑っていたものの、最近ではとても楽しそうだ。ゲームの腕ではまるで敵わないので醜態を晒しっぱなしだが、妹と一緒に活動する楽しさに比べればそれでもいいかと思える。活動やリスナーとの交流を通して、凄いことをしているのに何処か自信なさげで周囲から一歩引いているこの子に、少しでも自信が付けばいい。無論、おかしな人間や悪意を近づけさせないように大人が守るつもりでいる。
父とその家族に会うことは、慶事や弔事以外ではおそらくもうないだろう。あたしから言い出すつもりはないし、父も新しい家庭の邪魔をされたくはないだろう。母の行方はわからない。知るつもりもない。
あたしと妹はお互いにたった二人だけの家族だ。
妹が早く大人になりたがっていることは知っている。あたしに負担をかけたくない、人生の邪魔になりたくない、と。
頼もしいと思う一方で、寂しいとも思う。もう少しだけ、まだ子どもでいられる時間だけ、家族として側にいたい。手元において出来うる限りの愛情を与えてあげたいと思うのは、姉の我儘だろうか。
「んぅ……?」
妹が身を捩って目を開けた。起こしてしまったようだ。
「起きた?」
「ん…寝落ちしちゃってたか」
「今ちょうど目覚まし時計を耳元におこうかと思ってたところ」
「うげ、それは勘弁」
くすくすと笑い合う。
ふと、妹が目をじっと見てきた。
「何?」
「元気なさそうだったけど、もう大丈夫ぽいかなって」
……ほんとにもう、この子は。
普段はそんな素振りは見せないのに、本当に人をよく見ていて、さりげない気遣いをみせる。優しい子だ。
「お姉は大丈夫だから、ちゃんとベッドで寝なさい」
「そうするー……おやすみ」
ふわぁ、と欠伸をひとつしてから、熟睡している平蔵を抱っこして立ち上がり、リビングのドアに手をかけた。
その小さな背中が無性に愛おしくなって、思わず声をかけた。
「愛」
「んー?」
「大好きよ」
こちらを振り返った妹は少しきょとんとしていたが、すぐに笑顔になって
「私も大好きだよ、お姉ちゃん」
と言った。




