95章 協定締結―――六百七十五年・十月九日(七)
「ねえ、ロウ君」
空のバスケットとハンドバッグを手に、私は数メートル先を歩く彼に声を掛けた。
「何だ、先公。足でも痛くなったのか?」
「まさか。あのね、ハイネ君の事で一つ訊いていい?」
でも丁度電柱があったので立ち止まり、背中を凭せかけて休憩。疲れてはいないけど、こんなに長距離を歩いたのは久し振りだ。ダイエットになるかしら?
「んだよ、質問なら後で本人に訊きゃいいだろ。記憶を戻すためだったら、あいつはスリーサイズでも喜んで答えるぞ多分」
すぐ隣の電柱で同じように休む彼にビシッ!人差し指を突き付ける。
「ロウ君!ズバリあなた、あの子の事好きでしょう!?」
「んだよ、藪から棒に―――ああ、まぁ嫌いじゃないな。で、それがどうしたよ?」
頬を赤くしながら殊更そっけなく返答する男子学生に、私は話を続ける。
「私も好きなの、宇宙で一番大好き。だから二人きりの内に協定を結びましょう」
「は?」
「ママ達の蔵書に因るとこの状況、『三角関係』って言うんでしょ?でも私達が仲違いしたらハイネ君、凄く困ると思うの。だから事件が解決するまで、お互い抜け駆けは無し」
「おい。あの変態女の本ってそれ、やお」
「シーッ!」人差し指を唇の前に立て、周囲に警戒しながら台詞を遮る。「トップシークレットよ!こんな往来で口にしちゃ駄目!!で、どう?中々悪くないアイデアでしょ?」
提案に彼が返事しようとした瞬間、キュー先生!?前方から私を呼ぶ声がした。
「?誰?」「あ、部長」
走って来た背の高い男の子は私を穴の空く程見つめ、それから安堵の息を吐いた。
「良かった、無事だったんですねキュー先生……皆、凄く心配してますよ?一体今まで何処へ行っていたんですか?」
「壬堂部長。悪いがこの先公、一時的に記憶がブッ飛んじまってるんだ。あんたも声楽部の連中の事も、ほんのこれっぽっちも覚えてない」
「何だって?ほ、本当なんですかキュー先生!?」
あれ、この顔何処かで――――あ、不意に映像が脳裏を走る。
「壬堂、君………うっ!」「先生!?」
鋭い痛みが走り、発生源の左の米神を押さえる。
「だ、大丈夫……ごめんなさい」
「謝る必要なんて無いです。ロウ、先生を病院に連れて行くなら俺も」
「いや、一人で平気だ。ところで部長、お袋さんはどうしてる?」
「あぁ……まだ入院中だ。結婚以来ずっと仲良かったからな、父さんとは……今朝も起きるなり錯乱して、今は精神安定剤で眠ってる」
それでも彼は暗い顔を上げ、疲弊した笑みを浮かべた。
「心配無いですよ、キュー先生。これからは俺がちゃんと母を支えていきますから」
「そんな……」
事情を悟り、絶句する私。その横で恋敵が鼻をヒクヒクさせた。
「部長、女物の香水の匂いがするぞ。セイレーンの姉ちゃんか?」
「ああ。夜に用意されたホテルに戻ったら、ロビーでずっと待っていてくれたんだ。大事な店を臨時休業にしてまで……言っとくが、一晩中傍にいてもらっただけだ。流石に何をする気力も体力も無かったからな。ところで先生、さっきは何を話してたんですか?」
「二人で紳士淑女協定を結ぼうとしてたの。そうだ壬堂君。立会人してくれない?」
年上の彼は二人とも親しいらしく、まさかハイネの事でこいつと同盟を?喪に服する表情が一変、困ったように頭を掻いた。
「止めておいた方がいいですよ。絶対破るに決まってます」
「おい部長、何誤解を招くような事ぬかしてんだ」
「うーん、駄目かな?手を出さないのが無理なら、機会均等って言うのはどうかしら?例えば私が五分抱き締めたら五分とか」
「そんな約束したが最後、嬉々として一時間でも二時間でも抱いていますよこいつは。何せ本人のいない所では、事ある毎に可愛いだの良い尻だの言ってるような奴ですから」
「まぁ」呆れた!「でも、それでも構わないわ。それだけロウ君もあの子が好きなんだし。さ」
「は、はぁ……先生も大概だなあ。絶対後悔すると思いますよ。と言うか、記憶が戻った後どうするつもりなんだ……?」
ブツブツ言いつつ壬堂君は私達の間に立ち、右手を挙げる。
「えっと―――キュクロス・レイテッド、並びにロウ・ダイアン。両名の合意を得て俺、壬堂 恵立会の下、ここに紳士淑女協定締結を宣言します。―――こんな感じでいいですか、先生?」
「ええ。ありがとう壬堂君、凄く様になってたわ」拍手の後、腕を後ろ手にして礼を言う。「そう言う訳だからロウ君、これからは抜け駆け無しだよ?」
「変なアマ。まあいいか」
そう言って満更でもない風に鼠色の頭を掻きかけた時、その叫び声が周囲に響き渡った。




