67章 『ホーム』への再訪―――六百七十五年・十月七日(六)
「ん……むにゃむにゃ……」
壁の水晶時計は四時を少し回った所だ。遊び疲れたジョシュアは、僕の膝枕で気持ち良さそうに眠っている。
コンコン。「失礼致します。クリーニングした服をお持ちしました」「あ、いえ。そこに置いておいて下さい」
立地のせいか、生憎このスイートルームには窓が無い。しかし、そろそろお暇する頃合だ。強行課の包囲網も解かれている頃だろう。追われる身になった以上、早くもう一度キュー先生に会わないと!
僕は起こさないようジョシュアを抱え、ベッドへ横にした。身体を冷やさないよう、バスローブの上から羽毛布団を掛ける。
「助けてくれてありがとう、ジョシュア。でも、僕もう行かないといけないんだ。また今度……次はキュー先生と三人で遊ぼうね」
可愛い寝顔に別れを言い、洗剤が仄かに香る長袍に着替え、スイートを後にした。
エレベーターに乗ってロビーまで降りると、支配人は受付に上半身を凭れさせて座っていた。が、様子が明らかにおかしい。口はだらしなく開き、涎が卓上へ垂れ、その両眼は呆けたように開きっ放し。先程応対したのと同一人物とは俄かに信じ難い光景だ。
「あ、あの……お邪魔しました。お風呂も料理も、とても素晴らしかったです」
感想を述べるも、老人に理性の光は無い。何だ、この人……?これじゃまるで痴呆患者だ。さっきも何処と無く変だったけど、これはどう見ても医師を呼ぶレベルでは。
そういぶかしむ僕の目の前で、彼は音も無くむっくり起き上がり、頭を深々と下げた。
「―――ああ、お帰りですね。本日は当ホテルを御利用頂き、誠にありがとうございました。お気を付けてお出掛け下さい」「は、はい……」
口の周りに塗れた涎を拭おうともせず告げられた挨拶に吃驚しつつ、僕はそそくさと出口へ向かった。
行きと同じ細い路地を出、鞄と三節棍を手に船着場へ向かう。途中で何度か背後を確認したが、幸いバントレー達は捕縛を諦めてくれたようだ。小父さん達の心配そうな顔も浮かびはしたが、当然まだアパートには見張りがいるだろう。連絡も危険だ。
(でもせめて、父さんだけには知らせないで欲しいな……)
唯一の肉親の召喚を無視出来る程、僕は薄情な息子ではない。
船着場にも追っ手の姿は無く、そのまま宇宙船に乗り込む。すぐに降りるので昨夜と同じく出入口近くに座り、マル秘ノートを開いた。
(ん?『スカーレット・ロンド』の後ろにも色々書いてあるぞ)
彼の物騒なウイルスはノートの約半分を占め、一番情報量豊富だ。が、パラパラ捲っていくと他にも幾つか別種の記述がある。
試しに次の『ゴールデン・アガペー(黄金への愛)』と書かれた一項を読んでみる。
(何々……本体から分離した部位を変異させ、同じ体積の純金を生み出すウイルス。まるで絵本に出てくる錬金術みたい!……身体が、金に?)
仮令先生が記したとしても、俄かには信じ難い文章だ。大体そんな生物が実在したとして、とっくに捕獲されている筈だ。何せ金は一グラム約四千、一キロもあれば余裕で車が買えてしまう。正に金の卵を産む雌鳥。
(……汚いけどこれ、排泄物もOKなのか?)
だとしたらとんでもない事だ。雌鳥どころか歩く札束製造機じゃないか!?
(もし僕がこれの保菌者で、お金が沢山あったら……駄目だ、何も思い付かない)
物心付いた頃から引っ越しばかりだったせいか、元々物欲は無い方だ。珍しい景色の所へ行くのは楽しいが、それでも溢れ返る程のお金は要らない。それに今までの生活から考えれば、どちらかと言うと自分には貧乏旅行が性に合っている。人や風土に触れながら、その土地の空気を堪能しなくて何が旅だろう?
(精々進学の資金とか、父さんに何かプレゼントを買ってあげるぐらいだな)
少しも面白くもない回答だが、こればかりは仕方ない。所詮、過ぎたるは及ばざるが如しだ。
結論が出た所で丁度アナウンスが響き渡り、僕はノートを鞄へと仕舞った。




