64章 逃亡―――六百七十五年・十月七日(三)
「―――よし!」バチバチッ!頬を両手で叩き、気合を入れる。
最早一刻の猶予も無い。悠長にキャリーなど引いていては捕まる。荷物は全て学生鞄に入れていこう。
教科書と制服を放り出し、少し考えて楽譜集は戻した。先生の記憶を取り戻す貴重なアイテムだ。マル秘ノートも忘れず横に差し込む。
それから足早に自室へ行き、上下の下着を数枚手に取る。クローゼットを開け、アラン先生のノートと博士の遺書が入った我が家のアルバムも。長きに渡る引っ越し生活がこんな所で活きようとは、人生何があるか分からない物だ。
「―――財布、パス、通帳も持ったな」
荷物を詰め終わって最終確認。良し、忘れ物無し!
最後にキッチンへ赴き、冷蔵庫から食パンの残りと魚肉ソーセージの束を掴み取った。安全地帯へ着いてからの食料だ。鞄の一番上に入れ、再度自室へ。
「ん?」
何故か窓の鍵が開いている。何時外したんだろう?でも、これで手間が一つ省けた。
ガラガラガラ。窓を全開にし、ベランダの柵に登る。目前二メートルの距離には電柱。あそこまで跳べれば、何とか逃走経路は確保出来そうだ。下のゴリラの部下は……二人か。気付かれないよう素早く降りないと囲まれてしまう。いざとなればまた三節棍で、
コンコンコン。「遅いぞ小僧。早くしろ!」ガチャッ!
侵入を合図に、僕は意を決して跳躍!伸ばした右手で電柱の取っ手に掴まり、するすると道路へ降りる。ベランダで怒鳴るゴリラを見上げている余裕は無い。援軍を呼ばれる前に商店街方面へと走り出した。
(何だ、これ?全然息が切れないし、さっきのジャンプだって……)
普段のポテンシャルからはとても考えられない運動能力だ。昨夜と言い、僕の身体には何か、途轍もない異変が起こっている……?
「待てっ!」「わっ!?」
曲り角から突然現れて両腕を広げた政府員を、棍の先端を支柱に跳躍で避けた。ああ!自分でやってて何だけど、口から心臓が飛び出るかと思った!!
「ハイネおにーちゃん、こっちこっち!」
数十メートル先で幼い友人、ジョシュアが手招きした。何故彼がこんな所に?
「ジョシュア!?どうして」
「いいから、そこのろじをまっすぐ!つきあたりにホテルがあるからはいって!!」
「へ?う、うん分かった!でも君は」
「だいじょーぶ。すぐいくから」にこっ。「またあとでね」
多少不安に思いつつも、僕は言われた通り細い路地に足を踏み入れた。しばらく走ると彼の案内通り、古びた一軒のホテルが現れる。
「済みません!」
硝子ドアを押し開けてロビーに駆け込むと、支配人と思しき老人が直立不動で佇んでいた。僕の顔を見、深々と一礼。
「お待ちしておりました、ハイネ・レヴィアタ様。お部屋は最上階に御用意しております」
そう言って、恭しく両手で純金の鍵を差し出す。受け取るとチン、丁度エレベーターが開いた。
「どうぞお乗り下さい」
「あ、ありがとうございます。でも僕、連れを待たないと」
「……」
「す、済みません。お邪魔しました」
何だ、あの目……起きているのに、まるで焦点が合っていなかった。




