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60章 再会―――六百七十五年・十月六日(九)




「こらっ!何やってるの!!?」「!?」


 黒ずくめが舌打ちし、慌てて庭の奥へ逃げる気配がした。奴が荒々しく遠ざかるにつれ、反対に近付いてくる別な軽い足音。

「だ、大丈夫君!?怪我してるの?」

 あぁ……神様、ありがとうございます。苦痛を一瞬忘れ、僕は天に感謝した。

 黄色いパステルカラーのワンピースを着たキュー先生は驚いた後、背中に手を回して上半身を起こしてくれた。温かく、異形でもない五体満足の先生に……。

「キュー先生……良かった、無事だったんですね」

 これでひとまずは安心だ。後は彼女を保護しつつここを脱出し、麓の船着場まで行けば……。

 だが、僕の希望は誰でもない。愛する恩師自身に因って無残にも打ち砕かれた。


「え、先生?君、何を言ってるの?」


 ポカンと口を開けた彼女は、次の瞬間屈託無く笑った。それもいつもの何処か寂しげな物ではない、眩しい程満面の笑顔で。

「変わった服着てるし、面白い子。君、名前は?」

「ハイネ・レヴィアタです……先生、まさか僕の事……覚えて、ないんですか?」

「?」

「中庭でいつも一緒に過ごしたじゃないですか!僕とロウ、それにミーコと一年近くずっと……!」

 ボロッ、反射的に涙が一粒零れる。

「あんなに楽しかったのに、本当に……忘れて、しまったんですか……?」

「な、泣かないで、ハイネ君……よく分からないけれど、ごめんなさい」

 殴打された胸に手を当て、労わる様に撫でてくれる。その温かさに痛みがスーッ、と引いていく。

「立てる?あっちに座れる所があるの。行きましょう」

「ええ」

 直立した途端、身体の前後が激しく痛んだ。三節棍を杖代わりにし、どうにか鞄を拾う。するとキュー先生は心配そうに手を差し伸べ、私が持つよ、革の取っ手を掴んだ。

「あ、ありがとうございます」

「いいよ、怪我人なんだもの。気分はどう?少し吐いたみたいだけど」

「もう大分マシです」

 嫌だな。選りにも選ってこんなみっともない時に再会なんて。早く口を濯げる場所に行ってサッパリしたい。

「あの、キュー先生はこんな遅くにどうして外へ?」

 幾ら人気の無い庭とは言え、未婚女性一人で出歩くのはどうかと思う。

「夜のお散歩。ママ達はまだ疲れているから駄目だって言うけど、もう全然へっちゃら」背中に手をやり、ふふ、と笑う。「心配性なんだから、皆」

 ママ?でも、彼女の母親は十五年前死んだ筈。なら、その言葉が指すのは若しや―――『Dr.スカーレット』?そんな……!?

「あの。ここ、もしかして先生の御自宅ですか?」

「そうよ、私達は『ホーム』って呼んでいるわ。以前はいつも賑やかだったんだけど、今夜はママと私だけ」

 鞄を左右に振る。

「大きくなったから、皆忙しいんだって。時間を作って帰って来てはくれるけど、やっぱりちょっと寂しいかな」

 説明しつつ無邪気にくるくる跳ね回る先生は、まるで人里に降りて来た遊び盛りの妖精のようだ。もしこれが封じられていた本当の姿なら、そして彼女自身幸福なら、二度目の記憶喪失も悪くはないのかもしれなかった。

 別荘の裏には実に立派な薔薇園が作られていた。入口には凝ったデザインのアーチ。右側にはベンチが設置され、その反対側には二つの十字架が。

「お墓ですか?」

「ええ。メイドのランファ、それに……とっても大事な友達。あんなに毎日遊んでいたのに、どうして……?」

 両方の十字架の先端を撫でて悲しげに呟いた後、彼女は信じ難い言葉を続けた。


「―――皆は『聖族政府』が殺したって言うけれど、本当なのかしら?」「!!?」


 驚愕する僕へ、先生は慌てて手をパタパタ。

「ご、ごめんなさい!ハイネ君はそんな事知らないよね?ほら、座りましょう」

 冷たいベンチに並んで腰掛け、鞄を大事そうに膝へ置く。

「ねえ、あなたの事教えて?さっきから私ばかり話してるもの。不公平だわ」

「僕の話?えっと、なら鞄を貸して下さい」

「はい」

 受け取り、入れていた楽譜集を取り出す。ページを開き、興味津々に見つめる彼女へ広げて見せた。

「この楽譜、見覚えありませんか?新学年になってから、これを皆でずっと練習していたんですよ。毎日暗くなるまで一生懸命」

「そう言われても……そうだ、歌ってみてよ。そうしたら何か思い出せるかも」

 成程。僕は深呼吸をした後、ゆっくりと自分のパートを口ずさみ始めた。


―――♫♪♩♬♫♪―――


 歌いながら隣を窺うと、キュー先生は瞼を閉じて静かに耳を傾けていた。と、その唇がゆっくり歌詞を追い始める。仮令顕在意識上には無くても、無意識はちゃんと覚えているんだ!それならまだ希望はある!!

「何でだろう、私……この歌、知ってる」

 賛美歌が終わり、彼女は首を傾げながら呟く。

「当たり前ですよ。先生は声楽部の顧問で、僕等へいつも熱心に指導してくれていたんですから」

 楽譜を閉じ、女性らしい細い手を握る。

「他に、何か思い出せませんか?そうだ、アラン先生の事は?」

「アラン……アンダースン?」

「ええそうです!教えて下さい。三日前の夜、先生達の身に何が起こったのか」


「―――私達を裏切ったんでしょ、あの子?どうなろうと知らないわ」


 キッパリ言い切られた台詞に、血の気が一気に下がるのを感じた。

 有り得ない。あんなに仲の良かった幼馴染をこき下ろすなんて。吹き込んだのは、矢張り『Dr.スカーレット』と『呪われた子供達』なのか?何て酷い真似を!

「ど、どうしたのハイネ君?怖い顔して―――え?大切な同居人、だった?ごめんなさい、私……!?」

「いえ、大丈夫です。それより裏切ったって、キュー先生達をですか?」

「らしいわ。私には何の事かサッパリ分からないけれど」

 彼女は首を横に振り、止めましょうこんな話、と呟いた。先程の台詞とは裏腹に、その瞳には喪失の痛みがあった。教えた連中と彼女の間に感情のズレを見、安堵する。

「そうだ、ママに薔薇を摘んでいこうと思っていたの。ちょっと待ってて」

「一人じゃ危ないです。一緒に行きますよ」

 アーチを潜った先には、様々な種類の薔薇が咲き誇っていた。赤、ピンク、黄、白、紫……昼間ならさぞや鮮やかな光景だろう。漂う香りも混ざり合って凄く濃厚だ。

「ママは赤色が好きなの。花瓶に挿すといつも喜んでくれるのよ」

「お母さんが好きなんですね、先生は」

 本当の両親が当人に殺されたとも知らず、彼女は満面の笑みを浮かべた。

「勿論!だからママの研究が上手くいくよう、これからも一杯お手伝いしなきゃ」

 そう言うとポケットから園芸用鋏を取り出し、狙いを定め始める。

「ど・れ・に・し・よ・う・か・な~?決めた!」

 蕾が僅かに綻んだ一本に手を伸ばし、茎を掴んだ瞬間、


「いたっ!」「先生!?」


 棘が刺さったのか、人差し指と中指から痛々しく血が流れ出ている。僕は慌てて鞄に手をやり、木綿のハンカチを取り出して患部に当てた。


 トクン。


 傷口に指が触れたほんの一瞬、心臓の鳴る音が聞こえた気がする。けれどすぐに止み、僕は布を押し付けて血を拭った。

「刺さったのかな?だったら早くピンセットか何かで抜かないと……先生?」

 カラン。鋏が落ちたが、彼女は真っ青な顔のまま微動だにしない。

「ど、どうしたんですか?」

「ハイネ君、今……血に触った?」

「え?ええ、でもほんの一瞬ですよ。大丈」


 ブワッ!薔薇の垣根を跳び越え、再度あの黒ずくめが現れる。「あ、さっきの怪しい人!」「下がっていて下さい、先生!!」


 叫びつつ、彼女が奴を知らない事に内心吃驚した。こいつ、『呪われた子供達』じゃないのか?なら、一体何者だ?

「だ、駄目よハイネ君!あなた怪我してるし、それに」

 相手は相当焦れているようで、いきなり突進してきた。また吹き飛ばされる!と思った一瞬後。僕の全身を奇妙な感覚が包んだ。


(あれ?何だ、これ―――見える、奴の動きが!!)


 スローモーションになった蹴りを難無く避け、カウンターで棍の先端を脇腹へ叩き込んだ。初めて本来の使い方をしたにも関わらず、武器はまるで吸い込まれるように綺麗な曲線を描いた。


 ガンッ!「っ!!?」ドサッ!


 地面に叩き付けられた敵を前にし、だが直後急激な眩暈と熱が襲う。前後不覚状態でその場に倒れ込み、「ハイネ君!!?」先生の呼び掛けに応える間も、症状に抵抗する間も無く、完全に意識を失ってしまった。




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