52章 悪夢と悪夢的訪問者―――六百七十五年・十月六日(一)
「ハイネ君」その声にハッ!一気に意識が覚醒する。
数メートル先に立つキュー先生は次の瞬間、苦しげに胸を押さえ始めた。故リリー・ルマンディ嬢と同じく、しなやかな指が見る見る獣のそれへ変貌していく。
「キュー先生!?」
「嫌ぁ……見ないで、ハイネ君……!」
綺麗な顔面を灰色の獣毛で覆われながら、咽喉を枯らせ涙を零し訴える。その肩を掴む、真っ赤な衣の先から伸びる死神の手。
「実験は成功だ。流石私の姪、素晴らしい成果だよ」
冷酷な研究者は嗤い、それから僕の方を振り返った。
「さて、次は君だ。折角だから新開発のこいつを注射してやろう」
そう言って、徐に毒々しい紫の液体が入った注射器を取り出す。
「何、安心しろ。上手く適合したら、キューと同じ檻に入れてやる」
「やめ―――っ!!?」
突然背後から両腕を屈強な腕に掴まれ、身動きを封じられる。振り返るとそれは―――亡くなったアラン先生だった。額からだくだくと血と脳漿を垂れ流し、死臭と共に怨嗟の呻きを放つ。
「ハイネ……お前も、俺達の所まで堕ちろ……」「ひっ!や、止め!!離して下さい!!」
死者に掴まれて半狂乱の僕へ、ゆっくりとだが着実に毒針は近付いてくる。狂気の女研究者の背後で、変わり果てた愛しい人が絶望の痙攣を起こしているのが見えた。
「さぁ坊や。上手くいくよう大父神様へ祈るんだ」
ブチッ!詰襟の一番上のボタンが外され、静脈に冷たく鋭い物が触れる。
ドッドッドッドッ!!
心拍数はMAXをとっくに振り切り、耳の後ろで五月蝿いぐらい鳴っていた。
「嫌だ!!嫌だ嫌だあっ!!!」ドドドドドドドッッ!!!
幾ら叫んでも、助けは来ない。無情な針が皮膚を貫き、血管内へ危険極まりない細菌が解き放たれた―――!
「わああああっっっっ!!!」ガバッ!
絶叫しながら跳ね起きる。恐る恐る首筋に触れて確認するが、幸い何の異常も無かった。
厭な寝汗で全身じっとり濡れている。寝巻きの前を掴み、まだ鼓動の早い心臓を押さえて呼吸を整えた。
「何だ、夢か……良かった……」
きっと昨夜ロウに一方的に電話を切られ、色々考え込みながら眠ったせいだろう。彼の言う事は尤もだ。でも、それでも僕は、
ドンドンドンドン!!!
玄関から大音量で響く音に思わずビクッ!そう言えば、夢でもこれと同じ音を聞いた気がする。
ベッドサイドの目覚まし時計を見ると、まだ五時半を二、三分回った所だ。こんな朝早くに一体誰だ?
(まさかさっきの、正夢じゃ……)
一瞬にして脳裏を恐ろしい想像が駆け巡り、生理的な震えが沸き起こった。
(いや、まだそうと決まった訳じゃ……先生が救出されたとか、そう言う良い知らせかもしれない。とにかく、出よう)
一層苛立しくなるノックに急かされ、ベッドを降りて玄関へ向かう。内鍵を外し、今出ます、一言声を掛けてからノブを回した。
「はい、どちら様で―――ぎゃっ!!」
寸前までドアに叩き付けられていた拳が頬を直撃。痛い!誰だ!?―――って、え?
「ロ――――っわっ!!!?」
酷く険しい顔でズカズカ侵入した親友はあろう事か、いきなり僕を強く抱きすくめた!着ているトレーナーから汗と、微かに脂っぽい臭いが漂い嗅覚を刺激する。
「わ、わわ……ちょ、ちょっとロウ……歯、ちゃんと磨いて寝たの?何かとんこつ臭いんだけど……」
耳朶をくすぐるやけに熱を帯びた吐息に突っ込むが、未だ彼は沈黙したままだ。
(ど、どどどうしよう……これって、どう考えても貞操の危機じゃないか……!!)
先程の悪夢なんて目じゃない、リアルな恐怖が襲い掛かる。確かに彼は気を許せる友人だし、好きには違いない。だだ、だけどこんな、本人の承諾も無くいきなり!!し、しかも僕がキュー先生を好きで、現在彼女が大変なのを知ってて!!!
「じょ、冗談は止めてよ本当に……こ、こう言うのは、せめてちゃんと手順を踏んでから」
「大丈夫か!?」ドタドタドタッ!「あ」
階段を昇って駆け込んできた黒スーツの男性(仮令オフィス街でも、こんな朝早いサラリーマンはまずいない。恐らくジョウンさんに頼まれた警護の刑事だろう)は、中を見るなり絶句。数秒後、硬直が解けると同時に困惑の苦笑いを浮かべ、ドアに手を掛けた。
「じゃ、邪魔して悪かった……ここ、おじさん閉めとくから」バタン。ちょっと刑事さん!どう見ても危機なんですけど!?
密室になり、親友は一層強く縋り付いて来る。頭を僕の肩に乗せ、背中に両腕を回して。ちょっと首を動かせば、それこそファーストキスを奪われそうな程距離が近かった。ゾッとしない事だが。ん?何か、胸の辺りに違和感が、
「―――っ!!?」
突然息を詰め、彼は一歩退いて身体を離した。その後まじまじと僕の顔を見つめてくる。
「わ、悪い……厭な夢を見て、それで……何してたんだ、俺?」
嘘だろ、覚えてないとか……しかし本気で困惑しているし、惚けているとは思えなかった。
僕は溜息を吐き、正直に今さっきの彼の所業を教える事にした。
「近所迷惑な程ドアを叩いた挙句、眠い目で出迎えた僕を熱烈抱擁。本気で貞操の危機を感じたんだけど、何か釈明はある?」
「俺が、お前を……?」
「変に間を取らないでよ!本気で本気かと思うから!!」
「あ、ああ済まん。朝っぱらから驚かせて悪かった」
しょぼんとしつつ、何故かまだ片手は肩に置かれたままだ。本当にそっちの気は無いんだろうな……?
「着替えもせず家を飛び出してきたの?家の鍵は?ちゃんと掛けてきた?」
「え……っと、ああ。大丈夫だ。微かに掛けた記憶がある」
握り締めた左手を開け、手脂で曇った古いキーを見せる。
「帰れる?バッチリ目を覚ましたいなら、特別濃い目のコーヒーを淹れてあげるけど」
「あ、ああ。頼む」
「じゃあ上がって」
素足に履いているのはいつものスニーカーだ。夢現でも流石に靴は忘れないか。もっと大事な物はしっかり忘れていたけど。
リビングのソファに彼を座らせ、キッチンで薬缶を火に掛ける。インスタントコーヒーをカップに通常の三倍近く入れ、それから冷蔵庫を開ける。もうすっかり目が冴えてしまった。ちょっと早いけど弁当と朝食を作ろう。
他人の家が珍しいのか、親友はちっともじっとしていない。あちこち歩き回り雑誌を捲ったり、唯一の壁掛け絵(パステルカラーの湖畔の風景画だ)を眺めたり。まるで保健所に保護されたばかりの犬だ。そう言えばさっきの感触……ああ、多分そうだ。道理で。
悪戯者の狼少年の手が、無造作にテーブル上の真っ赤に熟れた林檎を掴む。フンフン嗅いだ後、手の中で回して遊び始める。
「それ、昨日父さんに貰ったんだ。切ろうか?」
返事の代わりにポイッ!「いきなり食べ物を投げるな!?」ギリギリキャッチして注意する。
皮は綺麗なのでそのまま残しておこう。洗った果実にナイフを入れつつ、ランチはホットドック、朝食はベーコンエッグトーストと野菜のボイルにしよう、と決める。
「はい、出来たよ」
「おう、サンキュー」
足音も無くキッチンへ侵入していた彼は、一片を摘んでシャクリ。「美味い」釣られて僕もナイフを仕舞い手を伸ばす。しっかりとした歯ざわり、ジューシーな果汁が口一杯に広がった。
―――生憎こんな物しか持っていないが、良かったら食べなさい。
職場から急行したと言う言葉に偽りは無かった。父の鞄に入っていたのは財布とパスポート、仕事関係以外の物はこの林檎一個だけ。替えの服どころか下着すら放り込むのを忘れ、僕を案じて駆け付けてくれた肉親には頭が下がるばかりだ。そう話すと、良い親父さんだな、親友は目を伏せた。
「うん。ちょっとおっちょこちょいで涙腺が弱いけどね」
帰り際、小父さん達の分と一緒に作ったサンドイッチを渡した時なんて、小さな滝かと思うぐらい盛大に泣かれた。一緒に暮らしていた時はああじゃなかったのに。やっぱり一人で心細いのかな。
「んな親父さんを悲しませてまで―――本気で奴等とやり合うつもりなのか?」
「うん……キュー先生は、僕よりもっとずっと辛い筈なんだ。しかもたった一人で、だから……!」
親友の金目を真っ直ぐ見つめる。
「忠告ありがとう。でも、もう決めたんだ。ロウには迷惑掛けないよ。これは僕の個人的な問題だ。代わりと言ってはなんだけど、事件解決までミーコの事を頼むよ」
「―――アホ、誰も協力しねえなんて言ってねえだろ」
「え?」
「って、何ぬかしてんだ俺は……と、とにかく、相談ぐらいなら何時でも乗ってやる!お前がいないと昼飯とか色々困るからよ!!」
真っ赤になって恥ずかしげに後ろを向いた瞬間。僕は襟口に手を入れ、背中に生えた獣毛を思い切り引っ張ってやった。
「ぎゃっ!!何すんだよ手前!?」
「さっきの仕返し。獣族?」
手を開くと、髪と同じ鼠色の毛が数本指に絡み付いていた。ちょっと強く掴み過ぎたかな。
「……ああ。尤も変身は出来なくて、餓鬼の頃からずっとこの中途半端な姿だがな。―――気味悪いか?」
「全然。前の前の学校じゃ、毛の無い僕の方がイレギュラー扱いだったし。もしかして、虐められてたとか?」
「察しの良い奴だな、つくづく。……初等部の時は普通の公立学校に通ってたんだ。でも名前とこの姿で散々馬鹿にされて、高学年の頃には殆ど行けなくなっちまった」
ああ、そうか。狼の別読みはロウ、中々率直なネーミングだ。
「だから以前、カラオケでジョシュアに言われてカッとなったんだ。大人気無いなあ」
「コンプレックスなら仕方ねえだろ!」
俯いた彼は、自身の袖を掴んで話を続ける。
「だから転校してからはずっと長袖を着て、目立たないよう運動能力も隠してた。誰かさんに引っ張り出されるまでは、な」
「嫌だった?」
「最初はな。だけど事件が起きる前、先公が言ったんだ。あなたの走る姿は素敵だ、ってさ」
湯が沸いたので火を止め、コーヒーを注いで手渡す。一口含むなり、苦えっ!舌を出して訴えた。
「それなら一発で目が開くでしょ?」
「酷え。ところで今から作るのか、飯?」
「うん、昼食と一緒にね……まさか食べていく気?」
「まさかこの哀れな狼少年を、林檎とコーヒーだけで放り出す気か?」
真似られた。むか。
「腹減ったー!」
溜息。やれやれ、まあ食材は充分あるからいいけど。
「メニューは任せてもらっていいよね?」
「美味ければ何でも」食欲の権化め!「で、電話で言ってた金庫とノートは何処に隠してあるんだ?出来るまでしばらく掛かるんだろ。見せてくれよ」
「いいよ、付いて来て」
自室に行き、まずは隠した金庫を引っ張り出す。開いたままの中を無遠慮に触りながら、特に仕掛けは無さそうだな、親友は呟いた。
「暗証番号、何だったっけ?」
「六六〇〇三〇七だよ。今思ったんだけど、これって日付じゃないかな?六百六十年三月七日。ダン・ルマンディ博士と娘さんが事件に遭った日だ。裁判でエルシェンカさんが説明してた」
「何でアンダースンの野郎、わざわざそんな番号にしたんだ?」
「さあ」
何も見つからなかったので、元の場所に金庫を仕舞わせた。流石獣人、腕力が違う。これからは精々煽てて有効活用させてもらおう。
続いてキャリーバックを開け、アルバムを取り出した。挟んだノートを取り出し、彼に手渡す。
「はい。じゃあ僕は準備するから」
「俺も行く。ところでそいつは?」
「うちの家族アルバム」
「見たい!」
「はいはい」
その後キッチンへ戻り、食材を冷蔵庫から出して調理開始。まずはホットドッグを作るため、ソースの玉葱刻みに取り掛かった。




