30章 疾走―――六百七十五年・六月
体育祭当日の運動場。柔軟運動をしながら相棒のバーツ君を待っていると、クラスメイトの女子が慌ててテントへ駆け込んできた。
「レヴィアタ君、大変!男子達、仕出し弁当で食中毒になっちゃったみたいよ!!」
「え!ほ、本当ですか!?」
生徒のためにサービス価格で準備した先生達の好意が、まさかこんな形で仇になるとは。待てよ。確かバーツ君も嬉々として列に並んでいたような……。
「ええ。尋常じゃない苦しみ方だったから、さっき先生が救急車を呼んだわ。ほら、来た」
正面玄関の方から特徴的なサイレンが響き渡る。
「じゃ、じゃあ僕はどうしたらいいんです?あの弁当、僕以外の男子は殆ど食べていましたよね?しかもこの二人三脚は最終競技で、この結果如何で最下位か優勝かが決まってしまう重大な局面」
「そうよ。困ったわね、女子は組めないルールだし……もう!こんな大事が起こってるのに、どうして先生達は中止にしないのよ!?」
全くだ。しかしこのままでは確実に不戦敗。これで被害が特定のクラスだけなら、真っ先に陰謀説を唱える所だ。折角、体育の時間を目一杯使って練習したのに……と、待てよ。もう一人いるぞ。あの弁当を食べていないクラスメイト!
「まだ時間ありますよね?僕、ちょっと行ってきます!」
「あ、レヴィアタ君!?」
僕はテントを後にし、潜伏先であろう中庭へ向かう。予想通り、親友は猫じゃらしでミーコとお戯れ中だった。
「ロウ!」「んあ……何だよハイネ。こんな所で油売ってていいのか?もうすぐじゃなかったっけ、お前の競技」
心底面倒臭そうに言い、形ばかりのジャージでゴロンと芝生へ横になる。
「大変なんだ!皆が食中毒で運ばれて、うちのクラスの男子はもう僕等しか残っていない!アラン先生から聞いたぞ。君、脚が速いんだろう?今だけでいい、力を貸してくれ!」
頭を精一杯下げるが、聞こえたのは溜息の音だった。
「嫌だ。担任が何て言おうと、俺には関係無い」
「優勝したら内申に色を付けるって、皆の士気を上げたのは確かだよ。でも、僕が頼んでいるのはそんなつまらない事のためじゃないんだ!ここまでの皆の頑張りを無駄にしたくない。それに―――」
顔を上げ、真っ直ぐに彼を見つめる。
「―――一度だけでいい。僕もロウが走る姿を見てみたいんだ。駄目?」
親友は気恥ずかしげに顔を背け、舌打ちした。
「……断る。母さんと約束したんだよ、人前では本気出さねえって。幾らお前の頼みでも、これだけは譲れない」
「そう……か。ならしょうがないね」
生憎僕には母の記憶が無いけれど、どんなに大事な約束かは重々分かる。彼がどれだけ彼女を愛しているかも。
しょうがない。こうなったら言い出しっぺの担任を捕まえて出てもらおう。数学教師で余り運動はしていないようだが、如何せん非常事態だ。何としても走ってもらわねば。
背を向けた僕へ、にゃーお、ミーコが鳴く。
「ごめんねミーコ、もう行かなきゃ。―――ロウ、弁当箱は後で返しに来てくれればいいから。じゃあ、無理言って御免」
もう時間が無い。急いで運動場へ戻り、先生達のテントへ駆け込む。しかしそこには医務係の木咲先生とキュー先生しかおらず、担任は影も形も無かった。
「レヴィアタ君、そんなに急いでどうしたの?」
担任を探していると話すと、愛しい人が目を丸くする。
「ベーレンス先生なら、他の先生達とトイレに生徒が取り残されていないか見に行ったよ」
「高等部棟の方へ回って行ったから、すぐには帰って来ないと思うわ」
「そんな……!」
絶句と同時に、無情にもチャイムが鳴る。二人三脚の選手は速やかに指定の場所へ集合して下さい、隣にいた木咲先生が校内放送で告げる。
「ほら、最後だから頑張って」
「は、はい……」
背中を押されるまま、運動場の中央へ。他のクラスも人数こそ目に見えて減っているが、どうにか出場選手を揃えられたらしい。クラスの女子に手招きされてB組の場所に到着し、一瞬頭が真っ白になった。
「よう」「ろ、ロウ!?」
脚の柔軟に勤しんでいた親友は軽く返事した後、片手を挙げた。
「吃驚したー。何時の間に頼んだの?」
「って言うか、ダイアン君走れる?体育の時ずっといないじゃない」
「まあ見てろよ。ハイネ、脚縛ってくれ」
「利き脚は?―――右か。じゃあ僕が左側に付くよ」
足首を紐で括りながら囁く。
「いいの、お母さんとの約束は?」
「一回こっきりだろ。墓の下で目を瞑っててもらうさ」
「……御免、無理言って。本当にありがとう、ロウ。このお礼は」
ピーッ!ホイッスルと共に、女子が一斉にラインへ立つ。
パンッ!ダダダダッ……パンッ!パンッ!
「三位……って事は、優勝するには一位を取るしかないね」
脳内で素早く点数を計算し、責任の重大さに思わず溜息が出た。
「分かりやすくていいじゃねえか。―――おいハイネ。スタートしたら、左脚だけ必死こいて動かせ。俺が引っ張る」
「え?でもそれじゃあ君の負担が」
「たかが百メートルだ。お前を引き摺って走るぐらい楽勝さ」
得意げに鼻を鳴らす。どうやら本気のようだ。
「了解。でも無茶は禁物だよ」ホイッスルが鳴る。「行こう」「ああ」
半日にも及ぶ戦いで消えかかった白線の前に並ぶ。相棒の肩を持つと、緊張からかガチガチに強張っていた。
「大丈夫?」
「誰に向かって言ってんだ?お前こそ脚震えてるぞ」
「目の錯覚だよ」
アラン先生がピストルを構え、こちらを振り向いて驚いた表情を浮かべた。あれ程自分の授業に出なかった生徒が、選りにも選ってこの局面に立っているのだ。当然の反応だろう。
「位置に着いて。よーい、ドン!」パンッ!
スタートダッシュを切った瞬間、右半身がグウッ!とんでもない力で引っ張られた。慌てて必死に左脚を動かし始める。頬を打ち付ける風がいつもの数倍強かった。
「「わああああああっっっっ!!!」」
とても他の選手を見ている余裕など無い。遅い僕はともかく何故か相棒まで雄叫びを上げ、ゴール目掛けて突進した。
紙テープが胸に付いた所までは覚えている。限界を越えた心拍からか、少しの時間意識を失っていたらしい。気が付くと仰向けに倒れた僕達の頬を、キュー先生が濡れタオルで拭いてくれていた。冷たくて気持ちいい。
「吃驚したー。ゴールした途端、二人共バッタリ倒れちゃうんだもん。大丈夫?」
「はい」
「これぐらい何でもねえよ。んな事より先公、順位は?」
「それは勿論……あ、表彰式が始まるわ。二人共、早く紐解いて」
僕は上半身を起こし、解けかけた紐を解く。親友が先に立ち上がり、首をコキコキ動かした。
「あー、久し振りに本気出して疲れたぜ。来週の弁当、オムライスな」
「はいはい。手を貸して、まだ膝が笑ってる」
「あれぐらいで情けねえな―――よっと」
肩を支えられてどうにか立ち上がり、クラスの列の最後尾へ。
「―――えー、ハプニングはありましたが、取り敢えず皆さんお疲れ様でした。今年度も残り一ヶ月ですが、今日の事は後年良い思い出になるでしょう」
理事長先生は半分程になった生徒達へ微笑みかけ、今日の頑張りを労った。その後、隣にいた木咲先生にマイクが移る。
「では続いて表彰式に入ります。三位、三-A。二位、二-E。そして栄えある一位は―――一-Bです!」
運動場を越えて響く、大量の拍手。
「おめでとうございます。各クラスの代表者は表彰台へ登って下さい」
「ほらお二人さん、行って行って」「功労者なんだから遠慮せず」「わっ!?」
女子達に押し出されるまま、僕等は列の先頭へ。準優勝の賞状を手渡していた理事長先生がチラッ、とこちらを窺った。
「お前だけで充分だろ。何で俺まで……」
「クラスの総意だ。諦めなよ」
悔しげな目線で降りてくる上級生と入れ違いに階段を上がる。
「並み居る先輩達を破っての優勝、実に見事でした。特に最後の走りは素晴らしいの一言に尽きます。あんなに息の合った二人三脚は初めて見ました。―――本当におめでとう。ここにその栄光を讃え、トロフィーと賞状を授与します」
賞状を僕が受け取り、肘で相棒を突く。渋々金メッキのトロフィーを持ち、顎で反対側を支えるよう指示する。仕方なく左手に賞状を丸めて持ち直し、右手を添えた。
そのまま振り返るとB組だけでなく、一年生全体が僕等へ熱い歓声を送っていた。今にも逃げ出しそうな親友を横目に、僕は大きく手を振り返した―――列の後ろで生徒達以上に力一杯腕を動かす、愛しい音楽教師へ向けて。




