28章 予選後夜―――六百七十五年・五月(一)
「今日は凄かったらしいな。さっきキューから電話あったぞ」
くたくたで下宿先に戻った僕を、アラン先生はそう褒めながら玄関先で出迎えた。
合唱大会の予選に出場するため、今朝早くから声楽部全員でこの星の首都、オルテカへと赴いていた。初の本番で最初は緊張したが、先輩達やキュー先生が解してくれたので何とか実力を出せた。
「一位通過で学園初の本選行きだろ。早速お前が入部した効果が出たな」
「そんな事ありません。全部先輩達の功績ですよ」
僕はあくまでも人数合わせ。足を引っ張らないだけで精一杯だ。
「謙遜するなよ。疲れている所悪いが出掛けるぞ。お前が帰り次第連れて行くってもう言っちまったからな」
「?ええ、分かりました」
財布とパス以外の荷物を自室に置き、二人でアパートを出る。天井の人工光は既に殆ど無く、街灯が人気の無い夜道を照らしていた。
「腹減ったか?」
「はい、もうペコペコです。何処かへ食べに行くんですか?」
「ああ。期待してていいぞ」
十数分後、僕等は一棟の新しめのアパートに到着した。壁にメゾンラブレと書かれた建物の階段を三階まで登る。あれ?この名前何処かで……思い出そうとする僕を尻目に、同居人は三〇五号室のチャイムを押した。
ピンポーン。「アラン君ね!待ってて、今開けるから!」ガチャッ!
ドアの向こうに立っていたキュー先生へ、よう、今夜はお招きありがとう、彼は片手を上げた。そうだ、思い出した!先生のアパートだ!!
「こんばんは。さ、上がって。もう準備出来てるから」
まだ事態の飲み込めない僕の鼻先に、部屋の中から食欲をそそる醤油の香りが漂ってきた。反射的にお腹がぐぅ、と鳴る。
「ハイネ君、今日は凄く頑張ってくれたもの。遠慮せずに一杯食べて行ってね」
そう言って、塵一つ無い玄関からリビングへ通される。真っ白な家具と壁に、ピンク色の絨毯と点在して置かれたファンシーな小物が見事に調和している。年齢よりはやや幼いインテリアだけど、住人のキュー先生は明らかにリラックスしていた。
茶色のテーブルクロスが敷かれた上には、既にカセットコンロがスタンバイしている。その上にはぐつぐつ煮え滾る匂いの元、すき焼き鍋が乗せられていた。
「狭い所だけど、座って座って」
「ああ」
「は、はい」
器とお茶入りのコップ、箸が置かれている前に素直に腰を下ろす。
「はい。卵は自分で溶いてね」
言われた通り生卵を割り、くるくる適当に混ぜる。
「こいつの初勝利祝いなのに、俺までお相伴に預かって悪いな。そう言や、こっちで俺が飯食うのは初めてか?」
「あ、そう言えばそうね。ほらハイネ君、遠慮せずに取って」ニコニコ。「壬堂君にも精付けさせてくれって頼まれたの。決勝は七月だから、まだ先は長いけどね」
テーブルの隅に置いた白い携帯電話を眺め、ふうっ、浅い息を吐く。
「折角だからロウ君も誘ったの。でも今夜はお父さんと外食なんだって。あんまり楽しそうじゃなかったけど年頃の男の子だし、仕方ないのかな」
理事長先生と……高級レストランでフルコースとか?嫌っている風だったのに、よくOKしたな。単に美味しい物に釣られただけかもしれないけど。
渡されたお玉で具をバランス良く入れ、まずは主役の肉を一口。
「!?美味しい……!」
霜降りの脂肪が舌の上で甘く蕩け、しっかり付いた醤油が卵と共に旨味を脳まで届ける。完璧だ。こんなに感動的なすき焼きは生まれて初めて食べた。
「良かった。ご飯は二人共いるよね?アラン君は大盛りがいいかな?」
「ああ、頼む」
「お願いします」
白米と一緒に口へ放り込むと、更に美味しさが増した。瞬く間に茶碗が空になる。
「後でうどん入れるつもりだけど、お代わりする?」
「当然。お前はどうする?」
「なら、僕は一杯で止めておきます。キュー先生は食べないんですか?」
主食無しに麩を頬張る片想いの人に尋ねる。
「今ちょっとダイエット中なの。ほら、最近遅くまで部活してて、毎日皆でお菓子持ち寄って食べてたでしょ?」
「そんな事言って、全然太ってないじゃないか。寧ろ痩せぎすだ。お袋も心配してたぞ、ストレス溜めてるんじゃねえかって」
「えー?楽しいわよ、ねえハイネ君?」
聖女の微笑み。だが僕はYESともNOとも言えなかった。例の『Dr.スカーレット』の噂が心に引っ掛かっていたせいだ。
確かに声楽部や昼休みの時の先生は、とても生き生きしている。けれど、きっと他の時間は辛い思いもしているに違いない。
「ど、どうしたの?ハイネ君、もしかして何か悩みがあるの?」
「え?」
ふと顔を上げると、キュー先生は至近距離から僕をおろおろ見ていた。
「まさか、クラスで虐められてるとか……」
「いえいえいえ!上手くやっていますよ。来月の体育祭だって選手に選ばれましたし」
「本当?へー、何をするの?」
「二人三脚です」
徒競走の成績順で半ば強制的に決められた種目だけど、やってみると中々練習しがいがある。パートナーのバーツ君は今まで接点の無かった人だが、話してみるとジョークを飛ばしてくれたりして、結構気さくでやりやすかった。
「初めてにしちゃ息合ってるし、多分大丈夫だろ。一-Bはクラス全体の士気も悪くない。これで後はダイアンの奴が出さえすればなあ」
「?ロウ君、体育はまだ来ないの?」
「ええ。いつも授業が始まる前にいなくなっているんです」
昨日も僕が呼び止めるのを無視し、姿を消してしまった。だから、未だに彼の体操着姿は見た事が無い。
「惜しいなあ。あいつ滅茶苦茶脚速いんだぜ?一回商店街で見かけたが、百メートル十秒台で走ってたぞ」
「ええっ!?」
少なくとも我がクラスでは決してお目に掛からない数字だ。確かに身体能力は高いと常々感じてはいたが、まさか脚力までとは。
「それ見て俺も陸上部へスカウトしに行ったが、見事に逃げられた。野生の勘でも働いてるのかよ、あいつは」
もしかして原因は父親?だから余り目立ちたくないとか。有り得そうな話だ。
「ロウ君、確かお母さんは亡くなっているのよね……お父さんとは上手くいっているのかな?」
ん、キュー先生には知らされていない?担任と違って、一見殆ど接点が無いせいだろうか。
「そう言えば一人暮らしだっけ、あいつ。年末の三者面談、親父さんが来てたなら会っとけば良かった―――ん、どうしたハイネ?何か言いたそうだな」
半日分髭の伸びた顎に手を当て、顔を近付ける。
「もしかして何か知ってるのか?」
「え、ええ。証拠は無いですけど……二人共、本当に理事長先生から何も聞いていないんですか?」
「「??」」
「あ、やっぱりまだ秘密にしておきます。勝手に言い触らしたらロウに悪いし」
そう強制的に打ち切り、まだ半分近く残る鉄鍋の中身をお玉で掬った。




