21章 儚き保健医―――六百七十五年・二月(一)
いつものように中庭へ向かうと、親友が苦しそうな顔で手の甲を押さえ、幹に凭れていた。足下ではミーコが心配げににゃーにゃー鳴いている。
「どうしたの、ロウ!?」
「樹から降りる時に枝でやっちまった。いってえ……」
押さえた指の間から赤い液体がぱた、ぱた……と芝生に落ちる。傍で傷口を確認すると、かなり深かった。
「絆創膏ぐらいじゃ塞がりそうにないな。一緒に保健室へ行こう」
「悪ぃ」
応急処置として持っていたハンカチを巻き付け、ハンバーガーの油紙の横に弁当を置く。
「ミーコ。後で餌あげるから、少しだけ待ってて」
「にゃおん」
キュー先生は現在学園内外で猛威を揮うインフルエンザに罹り、昨日から休んでいる。かく言う僕等のクラスも今日は十人以上欠席で、この昼休みが終わり次第ホームルームだ。一応帰る前に声楽部へ顔を出してみるつもりだが、部長も昨日熱っぽいと零していたので練習にならないかもしれない。
近道である裏口から中等部校舎に入り、玄関ロビー付近。『保健室』とプレートの掲げられたドアをノックする。
「はい、どうぞ」「失礼します」ガチャッ。
運良く部屋の主は在室中で、しかも二つあるベッドはどちらも空いていた。
中庭に広がる緑と同色の真っ直ぐな長髪に、優しげなトパーズ色の瞳。美人だけど、新雪のような肌は何処か血色が悪かった。それは決して着ている白衣の反射のせいばかりではない。
「済みません木咲先生。友達が怪我をしてしまったんです。診てあげて下さい」
「まぁ、凄い血……!大丈夫?ここに座って、手当てします」
出血ですっかり蒼ざめたロウに手を貸し、丸椅子に腰掛けさせる。
ハンカチを解き、傷を確認した保健医は早速卓上の薬箱を開けた。中から取り出した脱脂綿を消毒薬に浸し、血を丁寧に拭き取り始める。
「いつっ!」
「少しだけ我慢して」隣で立つ僕に目を向け、「彼に手を握っていてもらった方がいい?」
「餓鬼じゃあるまいし……」
そう言いつつ、空いた左手の五本の指をピクピク。はいはい。全く、素直じゃないんだから。
握り潰さんばかりに僕の手を掴みながら、脂汗まで出して痛みに耐える親友。まさか、結構重傷なのか?
「あの、木咲先生。もしかして静脈切れてます?」
「それは大丈夫。出血量こそ多いけれど、皮は二、三枚だからすぐに塞がるわ。でも一体何で切ったの?調理実習は今日どのクラスも無かった筈だけど……」
現れた斜めの傷にガーゼを貼り、包帯を巻きながら尋ねる。
「樹の枝です。誤って上から落ちたらしくて」
「人をノロマなドジみてえに言うなよ。―――違うんだって。樹が動いたんだ」
「はぁっ?」
頭へ手を伸ばしかけると睨まれた。
「咄嗟に受身取ったから打ってねえよ。マジだって。いつもみたいに登ってたら、脚を掛けてた枝に途中で振り落とされたんだ。全く、どうなってやがるんだ?」
「気のせいだよロウ。きっと慣れない授業に毎日出て疲れているんだ」
この友人がそこまで繊細だとは思わないが、幾ら何でも植物が自力で動くなんて有り得ない。と言うか、普通に怖い。
「いいや、確かにガタガタ震えた。信じないなら今度はお前が登ってみろよ」
「校則で禁止されているだろう!って言うか、先生の前で何告白してるんだ!?」
慌てて包帯を固定する保健医の顔を覗くと、彼女は何故か鬱々とした表情を浮かべていた。
「済みません、木咲先生。もうしないように僕からキツく言っておきますから」
「え?あ……こちらこそごめんなさい。私からも注意しておくわ」
「?」
どう言う意味だろう?
「はい、終わり。二、三日は朝晩ガーゼを換えてね」
最後に白く包んだ右手をそっと撫で、木咲先生は立ち上がる。
「ところであなた達……もしかして、レイテッド先生や猫ちゃんとよく中庭にいる子達?―――あぁ、やっぱりそうなのね。何回か廊下の窓から見かけたんだけど私、人の顔を覚えるのが苦手で。―――大丈夫よ。他の先生達には言わないわ」
人差し指を口元に当てる。
「でも私、嫌われているのかしら……?何度か猫ちゃんの体調を診ようとしたんだけど、いつも近付いただけで逃げていってしまうの」
「ミーコは人見知りなんですよ。別に木咲先生が嫌いと言う訳では」
しかし内緒の飼育な以上、その特性は寧ろ長所だ。
「何だ、そうだったの。良かった、てっきり……」
胸に手を当て、安堵の息を漏らす。
「ならその内、私もミーコちゃんと仲良くなれるかしら?レイテッド先生とも……」
今日初めて話したけれどこの先生、キュー先生を心配してくれているんだ。でも肝心の本人はこの事、知っているのだろうか……?




