16章 下宿到着―――六百七十四年・十一月(三)
幸いアパート・デ・ソラは、築十数年の比較的新しい集合住宅だった。ホッと胸を撫で下ろす僕に、やっと着いたね、お疲れ様、勘違いしたキュー先生が労いの言葉をくれた。
三階まで階段で上がると、通路の柵に凭れていた体格の良い男性と目が合った。後ろから来た先生が彼に声を掛ける。
「あ、アラン君!丁度良かった、この子がハイネ・レヴィアタ君よ。商店街でさっき偶然会ったの」言いつつ僕の隣に並び、「ハイネ君。このマッチョさんがアラン・アンダースン先生よ。私と同じ中等部の体育教師なの」
同僚と共に現れた僕に、茶髪を短く切った彼は筋肉質な腕を上げて歓迎した。
「よう。迎えに行けなくて済まなかったな、ハイネ。道には迷わなかったか?」
「ええ、キュー先生に案内してもらったので大丈夫でした。僕こそ済みません、ずっと待たせてしまって」
「いや、謝るのはこっちだ。一昨日からちょっとバタバタしててな……ま、取り敢えず上がってくれ。キューもコーヒー飲んでけよ」
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えさせて―――あ、すっかり忘れてた!ごめんなさい、私学校に戻らなきゃ!」
「何だ、用事か?」
「三時にピアノの調律師さんが来てくれる事になっているの。先に行って音楽室の鍵を開けとかないと」
あ、音楽の先生だったんだ。成程。確かに声も透き通っているし、リズム感も良さそうだ。
「ならしょうがないな。気を付けて帰れよ」
キュー先生は腕を胸の前にし、満面の笑みで掌を左右に振った。
「バイバイ、ハイネ君!今度は学校で会おうね!!」
「はい。キュー先生、今日は道案内ありがとうございました!」
階段を軽快に降りる音を背後に、僕はアラン先生に連れられて三〇一号室へ。
「キャリーは玄関に置いといてくれ。こっちは親父とお袋の使っている部屋なんだ。お前は俺とこの真下で同居する事になってる。―――心配すんな。ちゃんと個室を用意してあるし、俺は鼾を掻かない」
「それは助かります」
ははっ、笑われた。そんなに変な返事だっただろうか?
「湯を沸かしている間に、こっちの部屋の案内を一通りしておこう。晩飯はお袋がここに用意するし、知っているに越した事は無い」
コンロに薬缶を掛け、カップにインスタントコーヒー(見た目通り特別扱いをしない性格らしい)の粉を入れる。その後彼は僕を連れ、一旦キッチンを離れた。
「こっちがトイレ、逆側が風呂。向こうの廊下の二部屋は、それぞれ親父とお袋の寝室。俺達の所も同じ構造だ」
「洗濯機は?」
「お前の部屋のベランダにある。洗濯物は一応干せるが、臭いが気になるようなら近所にコインランドリーもある。使い方は分かるか?」
「ええ。“赤の星”には数ヶ月いた事があるので大丈夫です」
そう答えると、アラン先生は腕を組んで快活に笑った。
「そいつぁ頼もしくて何より。あと悪いが、朝と昼は自分で適当に作って食ってくれ。生憎俺は料理を殆どしないんでな」
「なら弁当を作っても構いませんか?」
前までは父の分と二つ、毎日せっせと早起きして用意していた。
「お、自炊派なのか。偉いな。勿論いいぞ。偶には俺の分も頼むわ」
「はい、任せて下さい」
リビングに戻り、淹れたてのコーヒーを受け取る。遅れて出されたクッキーを抓みながら啜った。疲れた身体に糖分が染み渡る。
「コーディーさん達、今日はお仕事ですか?」
内科医で、確か往診もこなしていると聞いていた。きっと目の回る忙しさなのだろう、と思いつつ尋ねる。
すると教師は眉を顰め、いや、病院に行っている事は行っているんだか……言葉を濁した。
「?」
「まぁお前には関係の無い話さ。夕方には二人共帰って来る。今夜は美味い中華料理屋に連れてってやるからな、楽しみにしてろよ。ところで」ニンマリ。「お前、キューの事好きだろ?」
「へ!?い、いいいえ、そんな事ありませんよ!!!?」
上擦った返事に、あっはっはっは!厚い胸板を震わせて爆笑された。
「なら仲良くしてやってくれ。あいつは、とっても―――良い、先生だからな……」
何処か寂しげな表情で、同居人はそう頼んだ。




