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「──ハッ」
白い天井の造りが自宅のそれであると認めるまで、佐伯は自分の居場所がわからなかった。
「……はぁ」
しばらく息を整えようやく上体を起こして、薄暗い部屋を見回した。ここはホテルではない。
夢を見た。とても懐かしく、忌まわしく、悲劇的な夢──過去のできごと。
何度目か知らないが、ここしばらく見る頻度が上がったように思う。夢に出るならもっと幸せな場面もあったろうに、すべて悪夢として上塗りされてしまったようだ。
深く息をついてベッドから降りる。もう3日も経つのに、下半身の違和感はまだ残っていた。今日はそれに加えて全身に汗が吹き出しさらに不快だった。
「だから、向いてないって言ったのに」
実際に言った相手は違う。そして言っていない相手に、この身を再び預けてしまった。
「……軽蔑するだろうな」
佐伯は誰にともなく呟いた。
あれから──檜山と没交渉となり、代わりになぜか五十嵐と会う機会が増え──佐伯は五十嵐と再び関係を持つことになった。
別に付き合い始めたわけではない。言うなれば五十嵐主体の「大人の交際」。佐伯に断る意思はなかった。
高校3年のあの日の檜山は結局、佐伯の謝罪を受け入れなかった。その代わりに大暴れして騒ぎになった。おかげで彼は針の筵とまでは言わないものの、居心地の悪い思いをしたはずだった。それなのに佐伯には表面上当たり障りのない態度でいてくれたが、佐伯には却ってそれが心に響いた。
自分が悪いのもある。答えを受け入れる勇気がなくて、チョコレートで彼をケムに巻いた。どうせノーのはずだった。そう答えてくれれば、あの騒動は起きなかったはずなのに。
なぜ檜山は自分にノーと言ってくれなかったのか。あの雨の日だって、佐伯はひどい言葉で檜山を傷つけたのに。にも関わらず、彼は最後までノーと言わなかった。
そう。雨。
今のような、しとしとと降る雨の日。
※
天気予報が外れて、急な雨に見舞われた。いや、正確には降水確率30パーセントが見事に当たって、置き傘も折り畳み傘も用意していなかった檜山だけが痛い目を見たのだ。
録画予約を忘れた、どうしても見たいテレビがあるから今日こそは早く帰りたいのだ。檜山は歯噛みしながら空を見上げた。濡れることそのものに抵抗はないが、あと始末が至極面倒。親にも呆れられるだろう。面倒だし、いっそここで服を全部脱いで下着だけで帰りたい、と決意しかけた。
「──これ」
せめて制服の上着だけでも鞄に入れようと視線を移したところに、佐伯がいた。遠慮がちに自分の折り畳み傘を差し出してくる。
「俺はまだ待てるから。檜山、急いでるんだろ」
佐伯は檜山から2メートルほど離れて立っていた。距離あるな、と檜山が思っていると、その傘が引っ込んだ。貸してくれるんじゃなかったのかよ、と肩透かしを食らう。
「……やっぱ、いらないよな」
「は? 何が?」
「俺なんかの、なんて」
佐伯の表情は見えなかったが、おそらく諦めたように笑っていたんだと思う。檜山は思わず佐伯に大股で近付き、面食らう佐伯の手首を掴んで廊下の奥へ引っ張っていった。
1階の階段の踊り場、袋小路に佐伯は連れ込まれた。薄暗く普段は誰も近付かない。タバコの吸い殻が落ちているから、そういう生徒の溜まり場にはなっているのだろう。
「痛いって」
佐伯が強く掴まれた手首から檜山の手をようやく振り払った。
「何がだよ」
檜山は佐伯を壁に追い込み、そう問う。佐伯は意味がわからず混乱した。
「は?」
「俺なんかの、なんだよ」
なるほど。檜山は佐伯の言葉が気に食わなかったらしい。あの告白は檜山からしたら当然断るもので、わざわざ言葉に出して拒む必要すら感じていないから。それなのに佐伯の、自分を卑下した言いように苛立つのは仕方のない話だ。
「……俺があんなこと言わなきゃ、君が山下を殴ることもなかったし、謹慎になることもなかったし、クラスの空気が変わることもなかった」
「俺は気にしてない」
檜山は最後だけ拾った。
「俺が気にするんだ。前まで君と親しくしてた木原たちも、あんまり寄ってこなくなってるだろ」
「あいつらはああいう奴だし」
「女子たちだって」
「関係ない」
「なんで答えてくれないんだ!」
佐伯は檜山に強く言った。そもそもの話に檜山は応じてくれない。なぜなのか、佐伯には理解できなかった。
「君が平気でも、俺が耐えられないんだよ。卒業までずっとこのままでいるつもりなのか?」
檜山は答えない。じっと佐伯を見つめている。
「……クラスのこと考えろよ。年明けにはセンター試験受けるんだぞ? 卒業するんだぞ? 〈楽しかった3年生〉で終わりたいんだぞ? こんなピリピリした中で、できるわけないだろ!」
「じゃあお前だけが悪者になって〈楽しかった3年生〉を迎えられたら満足なのかよ」
檜山の地を這うような声が佐伯を怯ませた。グッと奥歯を噛み締め、それでも佐伯は檜山を睨んだ。
「……いいよ。君が元に戻る方が、ずっとい……、っ」
檜山は佐伯の胸ぐらを掴んで睨み返した。双方の視線が絡み合う。
何時間も経過した気がしたが、それはほんの数秒程度のことで、引いたのは檜山だった。
「勝手にしろ」
佐伯の体を押し出して、檜山は踵を返した。背後から佐伯のか細い声が響く。
「……言わなきゃ、よかった。お前なんか……」
佐伯は言うのだ。「お前なんか好きにならなきゃよかった」と。
檜山はそれを聞きながら校舎を飛び出し、雨の中を駆けていった。
佐伯は後悔したのだ。告白も、檜山を好きになったことも。そして檜山が答えなかったことに失望した。
檜山はあの時なぜノーと答えなかったのだろうと考えた。もちろん佐伯が答えを求めなかったのが大きい。そのことに安堵して、檜山も棚上げできたから。
それを遮って断ることなど造作もないはずなのに。
おかげでクラスの空気はひどいものだ。
もし。あの時檜山が受け入れていたら、2人で力を合わせて解決に向けて何かしていただろうか。山下のからかいにも笑って受け流していただろうか。誰も傷付かずに、和気藹々とした3年生を終えていただろうか。
今さら考えても詮ない話だ。檜山は答えず、佐伯も答えを求めなかった。
佐伯は自分を悪者にしても構わないと言った。なら、佐伯の希望を叶えるために「お前なんか好きじゃない」と答えればいいのか。
「……できるかっつの」
ではどうすればよかったのか。
檜山には思いもよらなかった。その日から10年、答えるべき言葉が腹に置きっぱなしのままになるなど。




