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桜の季節になった。同時に年度末とあって、檜山は目が回るような忙しさの只中にいた。
佐伯とは締切が近いということで、しばらく会えていなかった。多忙を極めても物足りなさを感じていた檜山は、書店で「結木冴」の小説を探してはそれを買い込み、その夜ずっと彼の紡ぐ世界に没頭した。高校時代には決して触れることのなかった佐伯の頭の中の世界。10年の年月をかけて、ようやく届いたのだ、と実感する。
ただ、10年前のあの日のことは、佐伯は頑なに話題に出さなかった。檜山もそれを察して自分から持ち出すことはない。恋愛話から佐伯の赤裸々な告白を経ても、あの日は完全に禁句扱いになっているらしい。
理由は様々あるだろうが、佐伯にとって口に出すのも憚られる、いわゆる黒歴史になっているのであれば、檜山にそれを掘り返す権利はないのだ。
檜山のスマートフォンに佐伯から連絡があった。『生き抜いた』──執筆がひと段落ついたらしい。
檜山はここぞとばかりに佐伯を花見見物に誘った。来週から雨模様だから、今が満開の桜が見られる今年最後のチャンスね、と懇意にしている客に言われたのだが、それでなくても檜山は佐伯を誘うと決めていた。自分1人なら顧客向けのチラシ用にとしか思えなかった桜。浮かれているなと檜山は自覚する。
桜並木で有名な公園。その現地で合流した佐伯は少し痩せたように思う。聞けば執筆中は1食すませればいい方なのだとか。
「不健康な職業なんだな」
「人によるよ。ちゃんと3食食べてる先生もいらっしゃるし」
「よそはよそ」
「ぶー」
控えめに膨らんだ頬が子供じみている。
「あれ、奇遇だね」
その声は檜山たちに向けられたもののようだった。振り返れば、檜山の記憶にはない知らない男が立っていた。ラフなジャケット姿ではあるものの、女性受けを自負していそうな顔立ちだ。
「わ、ご無沙汰してます。本当に偶然ですね」
一方佐伯は面識があるようで、破顔してこれを迎えた。
「この度は素敵なカバーをありがとうございます」
「そのお礼は授賞式でも聞いたよ。この次も縁があればいいね」
「本当に」
檜山抜きでやり取りされる様子を呆然と眺めていると、気付いた佐伯が檜山に向き直った。
「こちら、五十嵐先生。俺の本のカバーデザインを担当してもらったデザイナーさんなんだ。──先生、彼は檜山君です。私の高校時代のクラスメイト」
「……どうも」
檜山は五十嵐に会釈をしながら知らず奥歯を噛んだ。「クラスメイト」だと。事実だから仕方がない。けれど、苦味が心臓あたりに広がる。
「初めまして、五十嵐です。何度か結木先生の御本でお世話になってます。彼の最新刊読まれました? ボクはあのシーンでうっかり泣いてしまいましたよ」
五十嵐は気恥ずかしそうにハハハと笑った。檜山は「はぁ」とだけ返した。愛想笑いができたかどうか定かではない。
「お1人ですか?」
そう佐伯が訊くのに、五十嵐は無駄にウインクして返す。
「残念ながらね。今年の桜のデッサンをしに来ただけだから問題ない。いやぁ、毎年見るけれど飽きないねぇ……おっと、せっかくのデート中に邪魔してごめんね」
「冗談よしてください」
「またご飯行きましょう」
苦笑する佐伯の肩に、五十嵐の手が慣れた様子で触れる。まるでマーキングだな、と檜山は思った。
五十嵐と別れたあと、2人は飲み食いするでもなく桜並木をとぼとぼと歩いていた。そこここでブルーシートを広げて酒宴を開く集団を眺め、檜山は風情とはなんぞやと誰もが思う疑問をぐるぐると頭の中で転がした。そうしないと心のざわつきが収まらないのだ。ともすれば「あいつはお前のなんだ。仕事相手? 本当に?」と自分を棚に上げた女々しい詰問を始めそうで恐ろしかった。
そんな心の内で荒れ狂う檜山を察したのか、佐伯は桜並木が一旦途絶え、公園の端に達するあたりで声をかけてきた。
「ごめん。今インスピレーションすごい湧いてきたから、今日はここまでにしようか」
「え」
檜山は驚いて佐伯を見た。彼は眉を下げて申し訳なさそうにしている。
「この手応えを離したくないんだ。今日は誘ってくれてありがとう。じゃあ、また」
止める間もなく佐伯は公園の車止めをスムーズに避けて去っていった。
また、と言ってくれただけマシだろう。呆れたに違いない。仕事仲間を紹介した途端不貞腐れたのだ。佐伯の「檜山はクラスメイト」という紹介は正しかった。
あんなことを言うんじゃなかった、と思われても、檜山には否定する言葉がなかった。
あれ以降、会う機会は減った。ただ交流そのものは途絶えていなかった。「雑誌に載っていた短編読んだ」とメッセージを送ると「ありがとう。実は……」と内情を話してくれるくらい、心易い相手と認識してもらえているのだ。
仕事が順調なのはいいことだ。ただ先日会った時も思ったが、佐伯は線の細い体をしている。高校時代も「ヒョロ」とまではいかなかったが細かった。鍛えることを積極的にするタチでもなさそうだし、もしや肉の付きにくい体質なのかもしれない。だとしたら不健康と背中合わせの生活をしている可能性もある。
檜山は自分のことを棚上げして、彼を心配に思った。執筆時は1日1食などと言っていたが、日頃から栄養はちゃんと摂っているんだろうか。実家は早くから出たと言うし、親戚か誰かに面倒を看てもらってるのだろうか。
もしや、あの男に──
檜山は頭を振った。まさか。あの時の会話から察するに、彼らは普段から親密なわけではないはず。少なくとも佐伯からすればビジネスパートナーでしかない存在と認識しているはずだ。佐伯が作家業をしていなければ出会う機会すらなかったはず。
はず。
「……」
檜山の胸の内に、ぐるぐると湧く得体の知れないものがある。
──なぜ俺はまだ答えてないのか。
※
体育の時間は嫌いではない。ずっと椅子に座って教師の話を聴くのはつまらないので、教師の指導があるにせよ、体を動かす時間は貴重だ。ちなみに「休み時間は休む時間」が檜山のモットー。
ただ「2人1組」の指示は苦手になった。懲りずに声をかけてくれる数少ない友だちはいるし、1人になっても気にしない。女子相手だと向こうも遠慮するからこちらも気が進まない、くらいで。
もっと苦手なのは、誰とも組まれない佐伯を見ることだった。たまに哀れんだ女子が組んでくれることもあるが、大抵はどこかで3人1組が形成され、彼は孤立する。
檜山は進んで佐伯に近づいた。担当教師も安堵の表情で見守ってくれるのがわかる。
「俺もあぶれてるから」
「……うん」
視線が合わないのはもう慣れた。少しばかり気を悪くするが、周囲の視線を1秒でも早く外すためには仕方がない。
片方が床に座って足を開く。もう片方が座った相手の背中を押して、前屈を介助する。
佐伯の背中は小さい。
「なぁ。お前いつも何食ってんの」
檜山の問いかけに、懸命に背中を前に倒していた佐伯がビクッと揺れた。
「……いろいろ」
以前のように気軽に返事をもらえるとは思っていない。檜山は「ふぅん」とだけ返し、少しだけ背中を押す力を強めた。




