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佐伯が合流したのが、結局あれから1時間ほど経過してからだった。時刻は午後3時を越えていた。よく痺れを切らせて帰らなかったな、と自分を褒めた檜山だった。
「ごめんね。用事とか大丈夫だった?」
店舗と店舗の隙間のような人気のない場所にドアがあり、そこから先ほどの出版社の女性と佐伯が出てきた。目が合うと申し訳なさそうに佐伯が言うので、檜山は素っ気なく答える。
「別に。何もないから平気」
「そ、か」
それを聞いて、佐伯は控えめな笑みを浮かべた。記憶の中の彼と差異はない。
出版社の女性──佐伯の担当編集者と連れ立って、会場から少し離れた喫茶店に入った。レトロな風合いの店内で、店主のこだわりが感じられる。
奥の席に通されたが、女性は座らず佐伯に向かって声をかけた。
「では終わりましたら連絡ください」
「え?」
檜山は戸惑ったが佐伯はぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございます」
どうやら檜山たちに気を遣って席を外してくれるらしい。たしかに担当編集に同席してもらいながら話をするのは気まずい。だからといっていなくても気まずい。とりあえず互いにコーヒーを注文し、沈黙の時間を迎えた。店内には静かなジャズが流れ、檜山は店内を何を見るでもなく見まわし、佐伯は手元に視線を落としている。
何から話そうかと檜山が話題を探していると、先手を打った佐伯が口を開いた。
「久し振り、だね。高校からだから、10年になるかな」
言われて檜山は実感した。高校を卒業して今互いに28。ちょうど10年の歳月が経過している。
「そうだな。……びっくりした」
檜山の言葉に佐伯は首を傾げた。
「何が?」
「小説家になってたなんて知らなかったから」
佐伯が「ああ」と合点いったように破顔する。
「読んでくれたなんて知らなかった」
「偶然なんだよ。S1グランプリだっけ。あれに選ばれるのがわかるくらい、いい話だった」
「ありがとう」
運ばれてきたコーヒーにミルクだけ入れて、佐伯はスプーンで静かに撹拌させる。
「それに、まさかサイン会に来てるなんて」
「まぁ、気まぐれで」
気軽な気持ちでする手続きではなかったことは佐伯も承知しているだろうが、佐伯はそこを追求する気はないようだった。
「結木冴、はペンネームってのだろ?」
檜山は心持ち声を顰めた。
「そう。本名の前後2文字ずつを交換しただけ。本名でやるのは恥ずかしくてさ」
「その割には顔写真付きでサイン会の宣伝してたけど」
佐伯は苦笑した。
「あれは会社が暴走したんだ。横顔ですんだけど、もうこれっきりだよ」
檜山は佐伯に釣られて笑った。そしてふと気になったことを尋ねてみる。
「大学へは行ったのか?」
「行ってない」
「じゃあ高校卒業して、すぐこの世界に?」
「まさか。高校出てから親戚を頼って上京して、仕事をしながら書いては応募を繰り返してた。5、6年くらいはその生活の繰り返しだったな」
「小説家が夢だなんて知らなかった」
「言ってなかったからね。言う機会もなかったし」
「……そうか」
「君は?」
佐伯の問いに、檜山は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「大卒からこっち、保証を売ってる、しがないサラリーマン2本だな」
佐伯はこれにはすぐ理解し、感心した。
編集の女性が戻るまでの1時間弱、檜山と佐伯は主に現状について話した。サイン会場には高校時代の元クラスメイトが来ていたことも聞いた。檜山にはそれが誰だったか記憶になく、ひたすらに佐伯に集中していたことを自覚した。
別れ際、檜山は佐伯に連絡先の交換を申し出た。せっかくの縁だから、と。断られはしなかったが、どうも喜んでいる風でもない。担当編集は「プライベートのことだから」と引き留めることはなかった。
住んでいるエリアが思いの外近いことも幸いし、それからは月に1回は食事をするなどして交流した。誘うのは大抵檜山からだ。「飯行かないか」と尋ね、「じゃあ◯◯日なら」と返事がある。向こうは自由業のため、曜日にこだわりはないらしい。締切に追われているとしばし疎遠になる。
互いにわいわい騒ぐタイプではないが、酒を飲む場所は好きだった。だから会食先は居酒屋だったりバルだったりする。適度な喧騒の中でポツポツと話すのにはちょうどいい。10年の空白を埋める作業は遅々として進まないが、檜山はそれで満足していた。
檜山の中で勝手に避けている話題があった。恋愛話だ。佐伯が既婚かどうか、独り身かどうか。左手を眺めたことがあるが、それだけだ。同じように佐伯もその手の話題は俎上に乗せない。単に興味がないだけかもしれないが、禁句のようにお互い口にしようとしなかった。
何度目かの会食の時だ。再会してからおよそ半年が経過していた。
いやに酒の進みが早いとは思った。「ちょっと行き詰まっててね」と佐伯はポツリと言ったから、小説を書くのに何か躓いているんだろう、と檜山は当たりをつけ、「適当に喋っていたら、いいアイデアが降ってくるかもな」と言った。半分本音、半分当てずっぽうだ。小説家なんて根性の要りそうな仕事、檜山には到底近づけそうにない。
気を抜いていたら、佐伯が均衡を破ってきた。
「君は、結婚してないの?」
ジョッキに残るビールを煽って、しばらく無言になる。
「……縁がないな。お前は?」
逃げるように相手に水を向けると、佐伯は白ワインをひと口飲んだ。
「試してはみたんだけど、なかなかうまくいかなくて」
「試す?」
言葉の意味が掴めずに訊き返す。もしやすでにバツが付いているのか。
檜山の疑いを見透かしたように、佐伯は悪戯っ子がするような意地の悪い笑みを浮かべた。
「この前、童貞と処女を捨ててみたんだ」
「……しょ???」
檜山は漫画のキャラクターなら頭にクエスチョンマークを3個くらい浮かべたはずだ。結婚に失敗した、という話ではないらしいが、まず、「童貞を捨てた」はわかる。近年、半数近くの男性が20代以降まで純潔であるという話だから、いわゆるアラサーで脱童貞を果たすのはなんらおかしな話ではない。
「ものは試しでしょ。やって後悔するか、やらずに後悔するか」
佐伯の口癖だ。檜山は我知らず冷や汗をかいた。
「どう、だったんだ」
「なんとも」
「なんとも?」
鸚鵡返しに佐伯が笑った。晴々としたいい笑顔だと思った。
「よくわからなかったんだよね。少なくとも俺に女性を抱くスキルはないってことはわかった」
檜山は唖然と佐伯を見た。何を言っているのか噛み砕くのに苦労する。あれは経験とかイメージトレーニングとかを駆使して、それこそスキルを磨くものじゃないのか、と檜山は思う。初回で躓いてどうする。
というより何より気になるのが、
「じゃあ、処女を捨てたっていうのは」いやその場合捧げたって方が合っているがこの際どうでもいい。「その、女役をやったってことか?」
檜山の知識量では限界があるが、佐伯の言葉を信じるのなら、そういうことだ。
「うん」
佐伯もあっさりと頷いた。
檜山は空気が抜けるように頭を落とした。さすがにこれ以上何も訊く気が起こらない。
佐伯はそんな檜山の心情を理解したのか、檜山の肩をポンポンと慰めるように叩いた。
「勿体ないよね」
「……何が」
「君さ。素材はいいんだし、ちょっと気をつけたら女の子がすぐに寄ってきそうなのに」
まるで檜山に女が寄ってこないような言い草だが、事実女性関係はここのところからきしだ。
「俺は蟻の餌かよ」
檜山がいじけるように言う。佐伯はアルコールが漂う目を檜山に向けた。
「どういう女の子が好みなの?」
「俺のことはいいって」
「よくない。適当に喋っていたら、いいアイデアが降ってくるかもしれないでしょ? この場合の適当はいい加減って意味じゃない。例えば人の恋愛話。よく消化しなきゃね」
「お前最低だな」
「はは」




