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仮眠はちゃんと取ったものの、学生時代のあれこれが夢現で現れ、碌に眠れなかった。
サイン会に行くには整理券の予約が必須らしかった。タイミングよく予約開始時刻に滑り込み、なんとか予約を取ることができた。すぐにスケジュール帳に書き込む。開催日は日曜日で仕事の調整に手間取ったが、これもなんとかクリア。
すべて初めてのことで、ひと段落する頃にようやくしっかり呼吸ができた気がした。
結木冴という同級生はいない。知っているのは佐伯侑だ。
佐伯侑。
檜山の高校時代のクラスメイトだ。特に親しくした覚えはないが、何かと話をしたことはある。
特段目鼻立ちがいいというわけではない。少し茶色がかった黒髪におとなしそうな目元と薄い唇。頬には軽くそばかすが散り、全体としては特に美男子でもなんでもなく、どちらかというと陰キャと呼ばれる部類に入る。何がおもしろいのか、彼がクラスのカースト女子からからかい半分で遊ばれているのを見たことがある。檜山はそれを醒めた目で眺めていた。
彼と最後に話をしたのはいつだったか。檜山は思い出そうとしたが、なんとなく頭が拒否した。夕陽が差し込む教室で、彼の手で転がされていたひと口チョコレートが嫌に脳裏に残っている。
サイン会当日。必須条件の受賞作『グラフティングラブレター』を再度購入して整理券を受け取り、指定された時間に列に並んだ。人生初のサイン会に、檜山は興奮と不安に揉まれていた。知人や顧客に見られていたらという不安と、「結木冴」の実物がまったくの別人だったら、という不安。まぁこれはこれで作品の感想を伝えて「応援してます」などと言えばいい。
佐伯本人だった場合のシミュレーションはしたものの、決めあぐねているのが正直なところだ。最初から旧友の顔をするべきか、白々しく驚くか。
もだもだと悩む檜山に、進行役らしき女性がサイン会の始まりを告げた。否応なく列が動いていく。少しずつ正解に近づく。
落ち着け、落ち着け。当たっても外れても普段通りでいけばいい。
少し汗の滲んだ掌の中で、買ったばかりの結木冴の単行本がわずかに滑りを帯びた。
「次の方どうぞ」
何かの宣告のように聞こえたのを軽く頭を振って払い、檜山は顔をしっかり前に向けた。
視線の先には、長テーブルに座る若い男。前にいた女性客に向けていたにこやかな笑みを凍らせ、檜山を見上げていた。
──やっぱり、お前だったか。
脇のサポート役の男性に促されて、機械的に本を差し出した。手早く表紙が捲られる様子を眺めていると、結木冴の視線が檜山から外される。露わになった見返し部分にサインペンが掲げられ、それが滑らかに動いた。
「お名前は?」
結木冴のサインはこういうものなのか、と感心していると、サポート役の男性が訪ねてきた。こういう場に不慣れな客だと見抜かれたのか、「こちらにお名前を入れさせていただきます」と案内される。
「あ、ああ、檜山です。木偏に、会うの難しい方で」
これまでも難儀した場面だ。新字体の「桧」だと野球選手の、で通ることも多いが、檜山家は旧字体。名刺のおかげで今でこそ他人に漢字で苗字を説明する機会はそんなになくなったのだが。
サポート役の男性はわかったようなそうでもないような顔をしたが、結木冴はそうではなかった。
「大丈夫ですよ、わかります」
そう言うとスラスラとペンを走らせた。その筆跡には見覚えがあった。日直当番の日誌を気まぐれにパラパラと捲った時に見た、佐伯侑の丁寧な字。
「──読みました。おもしろかったです」
傍目には沈黙の時間だと気づいた檜山は、咄嗟にそう告げた。嘘も誤魔化しもない。本音だった。
「……ありがとうございます」
一瞬目を見開いた佐伯は、次に蕩けるような笑みを浮かべた。結木冴のサインが入った本を返され、檜山は差し出された佐伯の手を握る。緊張して湿っぽい自分の手とは対照的な、さっぱりとした佐伯の掌。
背後に「次の方」が待っている気配がしたので、檜山はパッとその手を離し、佐伯に一礼して場から離れた。
店を出て、1歩、2歩。檜山は呆然と通路の端に立ち尽くした。
「……はぁ」
邂逅は終わった。別れ際の佐伯の顔を見る余裕もなかった。握られた感触が残る手を見ながら、檜山は「もう彼と会うことはないだろう」となんとなく思った。佐伯は小説家として頑張っている。これ以上自分が関わることはない。関わってはいけないのだ、と。
それから。
初めて手を握ったのが今なのかよ、とわらった。
※
檜山に好きだと告げた佐伯は、照れるでもなく、覚悟を決めた風でもなかった。
しばらく無言の時間が過ぎる。校庭から運動部の掛け声が聞こえ、檜山は一瞬現実逃避しかけた。
「……俺のこと?」
「うん」
どう言う意味でか、と問おうとしたら、佐伯に先を越された。
「でもそれだけだよ。返事はいらない」
変なことを言う、と檜山は思った。男子にラブレター渡す女子生徒だって返事がほしいと言うだろうに。
「なら、なんで言った?」
佐伯は「んー」と首を傾げる。普段の様子と違い、幼なげに見えた。
「言って後悔するか、言わないで後悔するか、賭けたんだよ」
そう言って、彼は手に持っていたひと口サイズシリーズのチョコを檜山に見せた。
「どっちが勝ったんだ」
檜山はつまらなそうに訊いた。訊かなくてもよかったとは思うが、そうはならなかった。
「……言わなきゃよかった」
佐伯は微笑んで答えた。なぜか負けたように感じて、檜山は口を曲げた。
「俺は告られ損かよ」
これには佐伯が腹を抱えて笑う。
「うん、ごめんな。お詫びにこれ、あげるよ」
目に涙を浮かべた佐伯から、彼が持っていたチョコレートを受け取った。指先が触れるか触れないかの絶妙な隙間。
彼はもう一度、「ごめんな」と謝った。
※
「……帰ろ」
もはやこの場に用はない。檜山はそう独言、歩き出した。
──と。
「すみません」
見知らぬ女性が声をかけてきた。カジュアルなパンツスーツ姿で、肩までの長さの黒髪が揺れている。
「はい?」
「あの、このあとお時間よろしいですか?」
「えっ?」
まさか商業ビルの一角で逆ナンパを受けるとは思いもよらず、檜山は面食らって女性を見た。
「申し遅れました、私、こういう者です」
檜山の勘違いを悟ったらしい女性から、素早く名刺が手渡される。混乱しながらそれを受け取ると、そこには見覚えのある出版社が記されていた。『グラフティングラブレター』の出版元。彼女はその文芸部の何某だという。
「結木先生から言付かっておりまして。『よければこのあと、お茶しませんか』と」




