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東京23区の目と鼻の先の市内にある、保険会社の営業所。
檜山宏太郎はそこで課長補佐というよくわからない役職を与えられ、他の社員と変わらず顧客を抱えながら営業活動をしていた。
地元の大学を卒業したあと、少し離れた街で新卒で採用されてから勤続すること6年。ノルマが厳しく新規顧客の獲得には苦労しがちで、入れ替わりの激しい業界。
やりがいはなくはないが、自分には合わないと思うことは多々あった。笑顔を貼り付けて商品を売るなんて、学生時代には考えもつかない未来だった。運よく、前任から引き継いだ顧客リストと相性がよかったのもあり、辞めるに辞められないまま、今に至っただけとも言える。
もう28歳。母親からそれとなく結婚について訊かれることが増えた。その度に有耶無耶に流しては、その夜ビールで苦い感情を流し込む。
学生時代は時間があり、金がないのが日常だったが、会社勤めをするとその逆になった。つまり、金はあるが時間がない。
職場内のいわゆる「生保レディ」は既婚者がほとんどで、しかも檜山より歳上ばかり。さらに言えば、好みがどうのと言うより、彼女らは言わば同じ戦場で背中を預ける戦士であり、ライバルなのだ。異性として見ることは檜山にはできなかった。だからといってマッチングアプリを導入する気も起きない。早くも枯れたか、と自嘲した。
日曜日の昼下がり。顧客訪問を終えた檜山は、事務所に直帰連絡を入れた。駐車スペースがない家への訪問だったため、近くのコインパーキングに向かい歩き出す。
10月に入ってようやく暑さが落ち着いてきたような気がする。毎年の客との挨拶文句「今年も暑いですね」は更新の一途を辿る。
そんな晴れやかな空の下、檜山はしかしそのまま素直に帰る気が起きなかった。帰ってもすることがない。日曜日は基本、平日に時間が取れない顧客用に確保しているので、休暇のイメージがもはや持てないのだ。誰かと遊ぶのも縁遠くなってしまっていた。お付き合いなど、それ以前の話だった。
このまま車に乗って自宅に帰り、部屋のソファに座ったら、その日は恐らくそのまま家を出ることはないだろう。
仕方なく、檜山は食品の買い出しをこのエリアですませることにした。近くには大型小売店の小型店舗があるようなので、生鮮品はそこで購入できそうだ。
私鉄の駅まで戻った檜山だったが、彼の足はなんとなく目についた書店に向かった。
大手のチェーンではないその書店の店頭には、新刊に混じって「S1グランプリ」なる賞の受賞作が平積みされていた。
数年前に設立された賞で、毎年全国の書店によって選ばれ表彰される。受賞作はメディア映像化も夢ではないらしい。POPには「※※学者◯◯先生も太鼓判!」などと権威のあと押しもあるようだし、昨今売り上げが落ちているという紙書籍の売り上げに貢献する起爆剤と期待されているのだろう。
檜山は新刊コーナーの続きでそこへ近づき、今年のグランプリ作品なる単行本を眺めた。
黄色を基調とした押し花のような柄が全体に広がり、箔押しで『グラフティングラブレター』とタイトルが打たれている。
グラフティング──移植の話か? それとラブレターにどういうつながりがあるのだろう、と檜山はそれに興味を持った。作者は結木冴。いくつか既刊があるようだがどれも読んだことはない。もとより檜山には読書の癖などはなく、誰であろうと「どれも読んだことはない」にはなる。
──『時空を超えてやってきた少女が伝える真実の愛の物語』……ねぇ。
なんとも陳腐な謳い文句だと思いつつ、檜山は少し迷った末に、その本を手にレジに向かった。どの本でもよかった。今の鬱屈した気分をなんとか変えたかったから、この本でなくても別に構わない。
それが運命というやつなのだろう、とのちの檜山はそう振り返る。
「時間を溶かす」は概ねネガティブな意味合いで使われることが多いが、檜山の時間は結木冴の著作によって綺麗に溶かされていった。
「うっそだろ……」
気づけば夜が明けていた。貪るように読むなど生まれて初めてで、物語のクライマックスには柄にもなく涙を滲ませ、主人公の心情に揺さぶられた檜山は、興奮冷めやらぬ様子で顔を上げ、そして現実に戻ってきたのだ。
月曜日。今日は昼からの出勤だったのがせてもの救いか。洗面所で見たおのれの姿は、さすがに人前に出せない。
まだ夜明け間もない時分だ。今から仮眠をとって挽回しなければ。
そう思いながら、ふと本に挟まっていたペラペラのチラシに目を向ける。読書中、栞代わりに使っていたものだ。「今月の新刊」として何冊か表示されているものと、サイン会のお知らせが書かれたもの。
檜山はそれを見て目を疑った。
作者の結木冴だという横顔の写真。そこには檜山の高校時代の友人が面影を残して写っていたのだった。




