第2話「信用と確認」
「俺たちも?」
ラウルがキョトンとそんなことを言うものだから、プリマは頭が痛くなる心地がした。
「当然でしょ」
「昼ご飯まだなんですけど」
「私はもっとまだ」
「朝食べました?」
「食べてない」
「駄目ですよ」
「原因に言われたくない」
プリマは壁にかけてあった上着を取った。羊毛の厚い布地が、朝のひんやりした空気とは対照的にどこか重たく肩にのしかかる。
◇
南農地区までは、街の中心から歩いて半刻ほどだった。
石畳が途切れ、乾いた土の道に変わる。空気の匂いも、鉄と羊皮紙の匂いから、土と草の匂いへと移り変わっていく。
エレナはギルドに残った。窓口を空にするわけにはいかない。彼女は見送りの言葉すら惜しむように、すぐに次の依頼人へと向き直っていた。代わりにハンナがついてきた。腕を大きく振って、遠足にでも行くような足取りで。
「なんで?」
「見たいから」
「仕事は?」
「エレナが見てくれるって」
「エレナは受注担当でしょ」
「今日は発注少ないし」
「そういう問題かな」
「もう来ちゃったし」
「自由だなあ」
新人三人を先頭にして、農道を進む。彼らの後ろ姿は、行きより幾分軽い。報酬が確定していないことなど、この道を歩いている間だけは忘れているようだった。
街を離れると建物は減り、代わりに麦畑が広がった。風が吹くたびに、金色に近づきつつある穂が波のように揺れる。その一部だけ、不自然に倒れている場所があった。まるで大きな足で踏みつけたような、いびつな凹みだ。
「あそこです」
ミーナが指した。
畑の端。踏み荒らされた跡。茎が何本も折れ、乾いた土の上に倒れ伏している。折れた茎の切り口はすでに茶色く変色していた。
「四日で三回やられたらしいです」
「夜?」
「全部夜です」
プリマはしゃがみ込んだ。膝が土につくのも構わず、目線を地面まで下げる。土を見る。乾いた表面のすぐ下に、まだ湿り気の残った層があった。
小さな足跡、裸足、三本指。
ゴブリンだ。指の形と歩幅から、プリマにはすぐに分かった。
さらに小さな跡が混じっている。大人の足跡の合間を縫うように、歩幅の狭い、明らかに幼い足取りのものが残されていた。
「子供がいたっていうのは本当みたい」
「疑ってたんですか?」
「全部疑うのが確認」
ラウルが嫌そうな顔をした。
「ギルドの仕事って性格悪くなりそうですね」
「なるよ」
「即答した」
「元々かもしれないけど」
少し先で人影が動いた。腰の曲がった男が鍬を持ち、畑の一角に立っている。日に焼けた首筋に、深い皺が刻まれていた。
まっさきに気づいたハンナが手を振った。
「ボルさんー!」
「ん?」
男が顔を上げた。目の上に手をかざし、こちらを見る。
「ああ、ギルドの」
「ゴブリンの件で確認に来ました」
「なんかあったのか?」
「それがねえ」
ハンナは振り返った。楽しそうな笑みを隠しきれていない。
「この子たち、ゴブリン倒してないんですよ」
「は?」
「でも追っ払ったらしくて」
「なんだそりゃ」
依頼人――ボルは、三人をじろじろ見た。土に汚れた掌で顎を撫でながら。
「お前らが行ったのか」
「はい」
ラウルが頭を下げる。泥のついた前髪が、その拍子に額に落ちた。
「ゴブリンは南の湿地へ移動しました。もうここには来ないと思います」
「そうか」
ボルはそれだけ言った。表情にほとんど変化はない。
そしてまた鍬を持ち直した。畑仕事を続けようとする、その自然な動作に、三人は少し拍子抜けした様子だった。
「じゃあいい」
三人の顔が明るくなる。
ハンナもプリマを見る。ほらね、という顔だ。眉を上げ、口の端をわずかに持ち上げて。
プリマは無視した。
「ボルさん」
「ん?」
「ゴブリンを殺してほしかったんですか?」
「いや?」
「では、なぜ討伐依頼を?」
「知らん」
「知らん?」
「俺は畑をなんとかしてくれって言っただけだ」
ハンナが吹き出した。堪えきれなかったらしい声が、麦畑の上に転がる。
プリマは黙った。しばらく、風が穂を撫でる音だけが響いた。
「エレナがそうしたのかな」
「受付の姉ちゃんか?」
「丁寧な方」
「ああ。いや、なんか色々聞かれたぞ。何匹だとか、何されたとか、殺していいかとか」
「殺していいと答えた?」
「そりゃまあ、畑荒らすなら仕方ねえだろ」
「殺してほしいとは?」
「そこまでは言ってねえな。第一殺したいなんて、そんな奴はいねえだろ」
プリマは額を押さえた。指の間から、こめかみのあたりを揉む。
ハンナが楽しそうに笑っている。
「プリマ?」
「なに」
「仕事増えたね」
「嬉しそうだね」
「人の仕事だから」
「発注の仕事にさせる」
「ごめんなさい」
標準様式の問題だった。
魔物による継続的被害。対象の特定。危険性あり。排除が必要。
通常、この条件なら討伐依頼として処理する。それが正しい手順であり、これまで誰もそれを疑わなかった。誰かが間違ったわけではない。
エレナの処理も正しい。手順通りに、丁寧に、依頼書を組み立てていた。
ただ。
「そもそも、うちに『殺さずに追い払う』って依頼区分がないんだ」
プリマが言った。乾いた風が、彼女の前髪を軽く揺らす。
ハンナが頷く。
「ないね」
「捕獲は?」
「あるけど別物」
「護衛」
「守るだけ」
「調査」
「解決しない」
「討伐」
「殺すね」
プリマはため息をついた。麦畑の匂いに混じって、自分の吐いた息の重さを感じる。
「雑だな、ウチ」
「今さら?」
ボルが不思議そうに見ている。土のついた眉が、少し寄せられていた。
「報酬は払ってやってくれよ」
プリマは顔を向けた。
「満額?」
「約束した額でいいだろ」
「ゴブリン、死んでないですよ」
「だからなんだ」
「戻ってくるかもしれない」
「その時はまた頼む」
「またお金かかりますよ」
「それは困るな」
「でしょ」
「じゃあ戻ってきたら、こいつらにタダでやらせろ」
「えっ」
ラウルが声を上げた。
「そりゃあ、そうなるよね」
「なんでですか!」
「あなたたちが『もう来ない』って約束したんでしょ」
「そうですけど」
「その約束込みで仕事を終わらせたって言ってるんだから、戻ってきたら仕事は終わってない」
「それはゴブリンが約束破ったんですよ」
「依頼人には関係ない」
ラウルは口を開けて、閉じて、もう一度開けた。何か言葉を探しているようだったが、結局出てきたのはこれだけだった。
「……仕事って厳しくないですか?」
「厳しいよ」
「冒険者って魔物倒す仕事ですよね?」
「そういう仕事もする」
「もっとこう、剣とか魔法とか」
「使えば? 使えば討伐成功だったよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
プリマは笑った。風にほつれた髪を耳にかけながら。
「剣を振ることだけやってれば、その後の責任が消えるわけじゃないよ」
ラウルは納得していない顔だった。眉間に皺を寄せ、地面のどこか一点を睨んでいる。
プリマはそれ以上言わなかった。言っても、たぶんこの若さには届かない言葉だ。自分もかつてはそうだったのだから。
「巣穴、案内して」
「はい」
◇
ゴブリンたちが使っていた巣穴は、農地から森へ入って十分ほどの場所にあった。木々の間を抜けるにつれ、日差しが緑の葉を通して斑に落ちる。土の匂いに、腐葉土の湿った匂いが混ざり始めた。
岩肌のくぼみに、枝と枯れ草を重ねただけの、粗末な巣だった。屋根と呼べるほどのものでもない。中には何も残っていない。
プリマは周囲を見回した。しゃがみ込み、暗がりの中に目を凝らす。
「急いで出た感じはないね」
壊れた籠。編み目がほつれ、底が抜けている。食べ終わった木の実の殻は小さく乾いて丸まっている。石を削った粗末な刃物、ボロボロで刃が欠けているものは残っている。
だが、持ち運べそうな布や器はなくなっていた。棲みかの端に、何かが敷かれていた跡だけが四角く残されている。
「移動するつもりで出たのは本当っぽい」
セスが少し嬉しそうにした。硬かった表情が、少し緩む。
「でしょう?」
「まだ」
プリマは足跡を追った。腰を落としたまま、地面を這うようにして。
四体分、南へ。途中で畑へ向かう道と分かれている。分岐点には、迷いなく方向を変えた足跡の跡がくっきりと残っていた。
足跡はそちらへは行っていない。
「南の湿地ってどこまで案内した?」
「川を越えた先です」
ミーナが言う。
「アシが生えてるところまで」
「食べ物は?」
「魚と、赤い実がありました」
「赤い実?」
「丸いやつです」
「葉っぱは?」
「細長くて、先が三つに分かれてました」
「それ食べさせた?」
「はい」
プリマは足を止めた。木漏れ日の中で、その言葉だけが不自然に沈んだ。
「セス」
「はい」
「解毒魔法使える?」
「え?」
「使える?」
「初級なら」
「なら大丈夫」
「何がですか」
「それ、食べすぎるとお腹壊す」
三人の顔が青くなる。森の緑の中で、その顔色の変化だけがはっきりと見えた。
「毒!?」
「毒ってほどじゃない。人間なら二、三個。ゴブリンならもっと平気」
「よ、よかった……」
「でも主食にしたなら、多分戻ってくる」
三人が固まった。木々のざわめきだけが、その沈黙を埋めていく。
「え」
「魚取れるなら大丈夫かもだけど」
「プリマさん」
「なに」
「詳しいですね」
「昔ちょっと」
「昔って?」
「昔は昔だよ」
ハンナがにやにやしている。腕を組み、わざとらしく口笛でも吹きそうな顔で。プリマは睨んだ。
「言わなくていいからね」
「何も言ってないよ」
「顔が何か言いたげ」
森を抜ける。木々の隙間から、白い光が急に開けた。
小さな川があった。水面が日を受けて細かく光っている。
向こう側の地面に、四体分、足跡が続いている。確かに湿地へ向かっていて、踏み込む角度も迷いがなかった。
プリマはしゃがみ込んだ。膝の下で、乾いた土が小さく音を立てる。足跡は乾きかけていた。
戻ってきた跡はない。
「少なくとも今のところ、話は本当ね」
三人が同時に息を吐いた。張り詰めていた肩の力が、目に見えて緩む。
「じゃあ!」
「でも一週間かな」
「はい?」
「確認期間」
ラウルが眉を寄せる。
「リーに確認するけど、一週間戻ってこなかったら、今回は解決したと見ていいと思う」
「一週間も報酬なしですか?」
「全部とは言ってない」
「え?」
「さ、帰ろう」
「待ってくださいよ!」
プリマはもう歩き出していた。川のせせらぎが、後ろに続く三人の抗議の声を半分呑み込んでいく。




