第1話「ゴブリンの耳はどこ?」
冒険者ギルドの朝は早い。
東の空がようやく白み始めた頃には、もう門の外に列ができている。朝から来る冒険者が多いので、当然、彼らを迎えるギルド職員の朝はもっと早い。石造りの建物の中はまだひんやりとした夜の空気を残しているが、窓口の内側では、すでに一日分の熱気が動き出していた。
「次の方ー。はい、採取だね。薬草二十束。どれどれ……っと」
「二十束あります!」
「まだ何も聞いてないよ」
「二十束ありますって」
発注窓口から、ハンナ・ボールドウィンの声が響いた。よく通る、屈託のない声だ。朝一番から元気である。窓口の向こうでは、若い冒険者が大きな麻袋を胸の前に抱え、まるで自分に言い聞かせるように「二十束ある」と連呼している。
ハンナは机に身を乗り出し、袋の口を広げて中を覗き込んだ。薬草特有の青くさい匂いがふわりと漂う。彼女は束を一つずつ指で数えていった。
「いち、にー、さん…………十八束だね」
「二十束です…」
「十八だよ」
「二十なんですぅ…」
「鯖を読むなら、せめて魚にしなよ。これは薬草だよ?」
冒険者は観念したように、肩を落として息を吐いた。麻袋の重さの分だけ、期待も一緒にしぼんでいくのが見て取れる。
「ほら、あと二束取っておいで」
「今日中に?」
「薬草は逃げないから大丈夫」
「俺の昼飯は逃げますよ」
「それは残念。せめて夜飯は逃がさないようにね」
ハンナは笑いながら手を振った。しょんぼりした背中が、薬草入りの麻袋よりも重そうな足取りで、扉の向こうへ消えていく。
その隣。
受注窓口では、ハンナとよく似た顔をした女性が、腰の曲がった老婆の話に静かに耳を傾けていた。姉妹の窓口を仕切る木の仕切り一枚を挟んで、片や賑やかな笑い声、片や落ち着いた相槌が並んでいるのは、この時間帯のいつもの光景だった。
「つまり、三日前から井戸の中で音がする、と」
「そうなんだよ。夜になるとねえ、こう、カリカリ、カリカリって」
「水に濁りは?」
「ないねえ」
「臭いは?」
「いつも通り」
「家畜や飼い猫がいなくなったということはありませんか?」
「ないよ」
「承知しました。では、まず現地確認の依頼として登録します。危険生物の存在が確認された場合は、追加で駆除・討伐依頼に切り替える形になります」
「あんた、丁寧だねえ」
「ありがとうございます」
エレナ・ボールドウィンは微笑んだ。柔らかく、けれど決して崩れない微笑みだった。羽根ペンの先が、依頼書の升目を迷いなく埋めていく。彼女はハンナの双子の妹である。目の色も、鼻筋も、笑ったときにできる口元のしわの位置までよく似ている。だが、机の上に広げられた書類の几帳面さと、隣の窓口に積まれた雑然とした惨状とを見比べれば、この二人の仕事ぶりが似ても似つかないことは一目瞭然だった。
「エレナ、それってさあ!」
隣からハンナが身を乗り出した。木の仕切りがぎしりと軋む。
「井戸、昨日のやつと一緒じゃない? ほら、西通りの!」
「お姉ちゃん。今、依頼人の方とお話ししています」
「あっ、そうだね、ごめん」
「それと仕事中は大声で呼ばないでください」
「はい」
「あと昨日の件は排水路です」
「そうだっけ?」
エレナは小さく息をつくと、何事もなかったかのように老婆への説明に戻った。井戸と排水路を取り違えたところで大した違いはない、とハンナは思っているのだろうが、エレナにとってはそこが分かれ道になる。水源と生活排水では、そこに潜む「何か」の種類も危険度も違ってくるからだ。
プリマ・ヴァネッサ・フランメは、それをほんの少し離れた自分の机から眺めていた。
窓から差し込む朝の光が、書類の山の上を斜めに這っている。手元にあるのは勤務表だった。今日一日分ではない。来月一か月分である。数字の詰まったその表には赤い印が三つ並んでいて、それが彼女の頭痛の種だった。目を細めてその赤印を睨んでいると、背後から声がかかった。
「プリマ」
「なに」
振り返らずに答える。声だけで誰かは分かる。
「この勤務表、俺の休みが一日少ない」
声の主はリー・コルトレーンだった。痩せた男である。痩せている、というより、仕事に必要のない部分を削っていったらこうなりました、というような身体つきをしていた。無駄口も、贅肉も、ほとんど持ち合わせていない。彼は鑑識担当。冒険者が持ち込んだ魔物の角、牙、耳、皮、果ては薬草、鉱石、その他ありとあらゆるものが、本当に申告通りの代物であるかを見極める仕事である。
そして今、彼の机の上にはオオカミのものらしき牙が三本、几帳面な等間隔で並んでいた。灰色がかった根元と、鋭く尖った先端。窓から差す光を受けて、鈍く光っている。
「少なくないよ」
「少ない」
「23日、休みになってるでしょ」
「23日は出勤になってる」
「半日」
「半日働いたら休みじゃない」
「でも午後は休み」
「午前に働いてる」
「じゃあ午前休みにする?」
「まだ、そっちの方がいい」
「一緒じゃない?」
「全然違う。朝起きなくて良いだろう」
プリマは勤務表に視線を落とした。赤い髪を肩に払って、羊皮紙の表面を指でなぞりながら該当の日付を探す。
「あ、24日も休み」
「24日は鑑定講習だ」
「講習は仕事じゃないって去年リーが言った」
「俺が教える側なら、それは仕事だ」
「面倒くさいなあ」
「俺の台詞だ」
嫌そうな顔をして言った後、リーは机の上の牙を一本つまみ上げた。窓の光にかざし、目を細める。根元の断面、切り口の角度、そういったものを一瞬で読み取っているのだろう。
「ところでこれ、犬だ」
「犬?」プリマは顔を上げた。「犬ってあの、ワンちゃん?」
「ワンちゃんかどうかは知らないが、その犬だ」
リーは窓口の方へ視線を投げた。
「おい、ハンナ」
「はーい?」
「昨日持ってきたオオカミ討伐の男、まだ報酬払ってないな」
「まだだよー」
「アレ、犬だった」
「犬かあ」
ハンナが帳簿をめくる。紙の束をバサバサと勢いよく捲っていくものだから、勢いで一枚零れた。
「うーんと、飼い犬?」
「そこまでは知らん」
「野犬なら?」
「依頼はオオカミだったろう」
「じゃあ駄目か」
「野良犬の牙がオオカミで通せるなら、俺がなんのためにここにいるか分からんぞ」
「休みを要求するため」
「お前から先に鑑定してやろうか」
リーが冗談とも本気ともつかない目でハンナを見た。彼女は肩をすくめただけで、それ以上取り合わなかった。
いつもの朝だった。
剣が抜かれることもない。
魔法が炸裂することもない。
人類の存亡が懸かっているわけでもない。
ただ、それなりの人数がそれなりに困っていて、それを仕事にしている人間がいる。
石壁に囲まれたこの空間の中で、薬草の匂いと羊皮紙の匂いと、誰かの汗の匂いが混ざり合い、それが「日常」という名の一つの匂いになっている。プリマはそういう場所にかれこれ七年いる。長いのか短いのか、自分でもよく分からない歳月だった。
扉が勢いよく開いたのは、午前十時を少し回ったころだった。蝶番が悲鳴を上げ、外の光が一気に床へなだれ込む。
「終わりましたー!」
声と一緒に、三人組が飛び込んできた。土埃の匂いと、若さ特有の高い体温が、ギルドの空気を一瞬揺らす。
全員若い。
先頭は栗色の髪をした少年。息を切らしていて、頬が上気している。革鎧には泥がついている。乾きかけた泥が、鎧の継ぎ目に沿って茶色くこびりついていた。
その後ろには弓を背負った少女と、大きな杖を持った少年。三人とも、達成感というより「早く報告したい」という子供じみた焦りを顔に浮かべている。
プリマは三人とも見覚えがあった。
登録して、まだ半年も経っていない新人パーティーだ。何度か窓口越しに顔を合わせている。
名前はたしか。
「ラウル!」
ハンナが先に呼んだ。
「おかえりー。早かったね」
「余裕でした!」
「ほんと?」
「はい!」
「怪我は?」
「ないです!」
「ミーナは?」
「ないです」
弓使いの少女が答える。背負った弓には、使われた形跡がほとんどなかった。
「セスは?」
「新しい靴が合わなくて靴擦れしました」
「それは怪我に入れなくていいかな」
ハンナは笑いながら帳簿を開いた。羽根ペンの先で該当の項目を探す。
「えーっと、三人は……南農地区のゴブリン討伐ね」
「はい!」
「対象は三体以上。畑周辺の被害停止。討伐証明は右耳――」
そこでハンナが手を出した。掌を上に向けた、いつも通りの仕草だ。
「じゃ、耳ちょうだい」
三人が止まった。
ハンナの手だけが残った。宙に浮いたまま、手持ち無沙汰になっている。
「……耳」
「うん、耳」
「ないです」
「ない?」
「はい」
「え、落とした?」
「違います」
「左耳持ってきた?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ頭ごと?」
「もっと違います」
ハンナは首を傾げた。差し出した手を、ようやく引っ込める。
「倒してないです」
「うん?」
「ゴブリン」
「ゴブリンを?」
「倒してないです」
ハンナは帳簿を見た。
そして三人を見る。
もう一度帳簿を見る。『討伐依頼』と記録にデカデカと印が押してある。
「じゃあ、終わってないんじゃない?」
「終わりました」
「倒してないんだよね?」
「はい」
「討伐依頼だよ?」
「はい」
「終わったの?」
「はい」
「倒したんだっけ?」
「倒してないです」
ハンナは数秒黙った。トンチか謎かけをされている気分になってきた。
「ねー、プリマー」
「嫌」
「まだ何も言ってないじゃん!」
「もうその顔で分かる」
「変なの来た」
「本人の前で言わない」
「じゃあ、面白いの来た」
「もっと悪い」
三人の新人は、少し不安そうな顔をした。何か決定的にまずいことをしてしまったのではないか、という空気が、革鎧の泥と一緒に彼らの肩の周りにこびりついている。
プリマはため息をついて立ち上がった。椅子の脚が石床を擦る音が、思いのほか大きく響く。勤務表を裏返し、机の端に押しやった。人事班長としての仕事は、たいてい後回しになる。
「で」
プリマは窓口の内側から三人を見た。窓口の木のカウンターに両肘をつき、指を組む。
「何したの?」
ラウルが胸を張った。泥のついた鎧が、その拍子にかたりと音を立てる。
「話し合いました」
「ゴブリンと?」
「はい」
「話せるの?」
「セスが少し」
杖を持った少年が小さく手を上げた。目立つことに慣れていないのか、耳の先が少し赤くなっている。
「北部方言なら。単語程度ですが」
「なんで?」
「祖父が研究者でした」
「なるほど」
世の中には色々な祖父がいる。プリマは深く追及しなかった。
「それで?」
ラウルが説明を始めた。身振り手振りを交えながら、少し早口に。
畑を荒らしていたゴブリンは四体。うち一体が子供。森の縁に作った簡単な巣穴を拠点に、夜になると農地へ降りてきていた。
討伐に向かったラウルたちは巣穴を発見した。最初は戦闘になると思った。剣の柄に手をかけ、身構えた。しかし、こちらに気付いたゴブリンは武器を構えなかった。ゴブリン達は痩せていて、あばらの浮いた身体が、闇の中でもはっきり分かるほどだった。どうやら、食べ物を探しているらしい。
セスが片言で話をしたところ、どうも彼らは元々もっと山側で生活していたらしい。ところが少し前から、そこに大型の獣が住みついた。追い出されて、食料のある人里へ降りてきた。
「なので、南の湿地沿いなら木の実も魚もあるって教えました」
ミーナが言った。矢筒の紐を指先で弄びながら。
「そっちに行けば、もう畑には来ないって」
「それで?」
「行きました」
「ゴブリンが?」
「はい」
「四体とも?」
「はい」
「見送った?」
「湿地に入るところまで」
「なるほど。それで終わったと」
「はい」
プリマは腕を組んだ。カウンターにもたれ、天井の梁をしばらく見上げる。
ハンナが小声で言った。
「……ねえ、いいんじゃない?」
「よくありません」
反対側から声が飛んだ。エレナだ。
依頼人の老婆を送り出し、いつの間にかこちらへ来ている。足音一つ立てない歩き方は、姉とは対照的だった。依頼書をパシッと叩いて、厳しい表情を作る。
「討伐依頼です」
「でももう来ないんでしょ?」
「現時点では、です」
「じゃあいいじゃん」
「討伐していません」
「でも困り事は解決してるよ?」
「確認できません」
「この子たちが見たって」
「あくまで自己申告です」
「信用ないなぁ」
「信用と確認は別です。何もかも手放しで信用していいなら、私たちの仕事はもっと減りますよ」
双子が向き合う。似た顔立ちが、同じ角度で相手を見据えている。傍から見ればちょっとした鏡合わせのようだった。
「だいたいさあ、依頼した人もゴブリンが死んでほしいわけじゃないでしょ?」
「それは私たちが勝手に決めることではありません」
「そうかなあ」
「そうです」
「プリマは?」
二人が同時にこちらを見た。示し合わせたわけでもないのに、動きだけは息が合っている。
「そういう時だけ仲いいね」
「どうするの?」
「どうしますか?」
プリマは依頼書を出した。引き出しの中から、束の中の一枚を迷わず抜き取る。エレナが作成したものだ。丁寧な字で、升目一つ一つが埋められている。
依頼人、所在地、被害状況、発生頻度、希望期限、支払能力、危険度評価などなど多数の項目が並んでいる。
その中ほどに依頼目的が書かれていた。
『農作物への継続的な被害を停止すること』
その下には依頼種別『討伐』。実施内容『畑周辺に出没するゴブリン群の討伐』。達成確認『討伐個体の右耳を一体につき一枚提出』。全て漏れなく書かれている。
プリマは指で紙を叩いた。乾いた音が窓口に小さく響く。
「うん。目的は達成してるかもしれない」
ラウルたちの顔が明るくなる。
「でも、依頼は達成してない」
暗くなった。三人の表情が、蝋燭の火を吹き消されたようにすっと沈む。
「そんなあ」
「依頼書を読んだ?」
「読みました」
「討伐って書いてあった?」
「はい」
「耳持ってこいって?」
「はい」
「じゃあ駄目じゃん」
「でも!」
ラウルが身を乗り出した。カウンターに手をつき、勢い余って鎧が音を立てる。
「倒す必要がなかったんです。相手も襲ってこなかったし、畑にも来ないって言ってるし。それなのに殺す方がおかしくないですか?」
「それは別の話」
「別なんですか?」
「別」
プリマは椅子を引いた。木の脚が床に擦れる音。三人に座るよう指で示す。
「例えばね。あなたがお腹すいたからパン屋に行って、パンを一個頼んだとするでしょ」
「はい」
「パン屋さんが『あなたお腹空いてるんでしょ』ってスープ持ってきたら?」
「……美味しければ」
「ラウル」
ミーナが肘でつついた。
「まあ、困ると思います」
「そう。お腹を満たすって目的は同じ。でも頼んだ仕事とは違う」
「でも今回は──」
「もっと悪い」
「悪いんですか?」
「ゴブリンが戻ってきたら、どうするの? 今度は人が襲われたら?誰が責任取るの?」
ラウルが黙る。開きかけた口が、そのまま止まる。
「討伐なら戻ってこない。死んでるから。あなたたちの方法なら戻る可能性がある。それ自体が駄目とは安直に言えないけれど、依頼人がそう望んだわけじゃない」
プリマは依頼書を持ち上げた。羊皮紙が、窓からの光を受けて薄く透ける。
「勝手に仕事内容を変えた。パンが欲しい人にスープを出した。それが問題」
セスが口を開いた。控えめな声だったが、はっきりとしていた。
「でも、ゴブリンを殺さずに済んだこと自体は、悪いとは思いません」
「うん。私もね、思わない」
三人が目を上げる。予想していなかった答えだったのだろう。
「むしろ上手くやったと思う」
ラウルが笑いかけた。頬の緊張が緩む。
「じゃあ──」
「だから余計に面倒なの」
「ええ……」
プリマは頭を掻いた。指の間から後れ毛がはらりと落ちる。
「下手なことして失敗してるなら簡単なの。未達成。報酬なし。はい終わり」
「ひどい」
「なんだか成功してるっぽいから面倒なの」
その時。
奥からリーが顔を出した。カウンターの陰から、鑑定用の眼鏡を額に押し上げて、状況をジロリと一瞥した。
「なんだ。耳がないなら俺の仕事はないな」
「うん。帰っていいよ」
「なに? 本当か?」
「あ、やっぱり勤務時間中だから駄目」
「今帰っていいと言っただろ」
「この会話からはね」
「普通、人はそれを帰っていいとは言わない。良いところ『戻っていい』だろう」
リーは舌打ちして引っ込んだ。眼鏡がまた鼻の上に落ちたのか、かちりという小さな音がした。
プリマは再び依頼書を見た。指先で角を揃えるように、少し撫でる。
「エレナ」
「はい」
「依頼人、今日は家にいると思う?」
「はい。この時間なら畑に出ていると思います」
それを聞いた、プリマは依頼書を置いてふっとひとつ息を吐いた。
「じゃあ、行こうか」
「現地確認ですか?」
「うん」
プリマが立ち上がる。椅子を引く音が窓口に響いた。




