第9話 閉じた円
夜明け前の学院正門には、すでに二台の魔導車が停まっていた。
第一回実習の朝より、集まった学生たちの声は小さい。
眠気のせいだけではなかった。
三日前、誰も操作していないはずの扉が開いた。
今日向かうのは、その扉を地下に抱えた遺跡だった。
レインは肩に掛けた鞄へ手を添えた。
記録帳、石筆、方位器、術式手袋、簡易照明石。リリアから借りた木箱も入っている。
昨夜確認した時から、何も変わっていない。
正門脇の時計塔から、五つ目の鐘が鳴った。
「遅いわね」
セシリアが門の方を見る。あと来ていないのはフィンだけだ。レインはフィンが起きるのを確かに見届けてから部屋を出た。
「まだ五つだ」
「五つ目で門を閉めてもいいと言われていたでしょう」
「あれはフィンへの脅しだと思う」
「本人に効かなければ意味がないわ」
鐘の余韻が消える頃、正門の向こうから足音が聞こえた。
フィンが黒鞄を肩に掛け、こちらへ走ってくる。
「間に合った」
「ぎりぎりでしょう」
「六つ鳴る前に集合だ。まだ一つ残ってる」
「なぜ毎回、規則の端を確かめようとするの?」
「余裕がどれくらいあるか知っておいた方がいいだろ」
フィンは息を整えながら黒鞄を下ろした。
グラハムが学生名簿から顔を上げる。
フィンではなく、鞄の底へ一度だけ視線を向けた。昨日締め直した留め具を確認したらしい。
「第七班、乗車しろ」
遅刻については何も言わなかった。
フィンは小さく肩をすくめ、レインたちと魔導車へ乗り込んだ。
学院を出発して間もなく、窓の外に朝日が昇った。
王都の建物が少しずつ減り、代わりに草原と低い岩山が広がっていく。
第一回実習の時とは違い、車内で騒ぐ学生はほとんどいなかった。
レインは昨夜見た平面図を思い返していた。
外縁の通路。
中央へ伸びる経路。
小部屋へ分岐する細い線。
北側に残された空白。
本当に術式なのか。それとも、術式に見えるよう意識しすぎているだけなのか。
答えは、現物を見なければ分からない。
◇
第十七遺跡へ到着したのは、学院を出てから二時間ほど後だった。
岩山の麓に、巨大な石造りの入口が口を開けている。
第八補助遺跡の入口より何倍も大きい。古い石柱の間には現代の防護柵が設置され、青白い結界線が二重に張られていた。
入口前には学院の調査拠点が築かれている。
木造の詰所。資料を保管する天幕。遺物を運ぶ貨物用魔導車。術式手袋を着けた調査員たちが、記録板を手に忙しく行き来していた。
柵の外側には、王立古代遺物保全委員会の紋章が付いた封印箱も積まれている。
「本当に調査現場なんだな」
フィンの声から、いつもの軽さが少し消えていた。
「第一回実習も調査だったでしょう」
「第八補助遺跡は、学生が入るために整えられてた。ここは違う」
セシリアは入口ではなく、周囲に配置された護衛の数を見ている。
「退路は正面の一つだけ?」
「外縁部には南側の非常口がある」
フィンが平面図を開いた。
「俺たちの担当区画からなら、正面よりそっちの方が近い」
「最初に確認しておきましょう」
三人が話していると、集合を告げる笛が鳴った。
学生と上級生が入口前へ並ぶ。
グラハムは全員が揃ったことを確認し、遺跡を背に立った。
「入場前に規則を再確認する」
話し声が止む。
「班員から離れるな。指定区画を越えるな。学院の調査設備へ許可なく触れるな。魔力反応が急変した場合、記録を中断して責任者へ報告しろ」
グラハムは北側を示す赤い標識へ目を向けた。
「開放された通路と、その周辺区画への接近は禁止する。上級生も同様だ」
先日の講義で期待を見せていた学生たちも、今日は黙って聞いていた。
「諸君は異常の原因を解明するために来たのではない」
グラハムの灰色の目が、学生たちを順に見た。フィンと似ているがどこか冷たさを感じる瞳だった。
「観測できたことを、観測したとおりに記録するために来た。原因の判断は、その後だ」
レインは頷いた。
「退避命令が一度でも出た場合、理由を聞く前に行動しろ。質問は安全圏へ戻ってから受け付ける」
誰も手を挙げなかった。
班ごとに入場が始まる。
遺跡の中は、外よりも冷えていた。
壁へ固定された現代の照明石が通路を照らしている。光の届かない天井は高く、暗闇の中へ消えていた。
足音が石床へ反響する。
奥へ進むほど、入口前の人声は遠ざかった。
第七班の担当は東側外縁区画だった。
新たに開いた北側通路からは、平面図上でも十分に離れている。
第七班の担当責任者は、探索科三年のダニエルだった。隣の第六班と交互に巡回し、両班の安全確認を行うことになっている。
ダニエルは三人へ過去の調査記録と、通信術式の刻まれた番号札を渡した。
「俺は隣の第六班と交互に見て回る。異常がなくても三十分ごとに報告。何かあれば、これを折れ」
ダニエルは番号札を指で示した。
「無理に成果を作ろうとするな。記録が前回と同じでも、それは立派な調査結果だ」
「分かりました」
セシリアが代表して答えた。
ダニエルは一度だけ室内を確認すると、第六班の担当区画へ向かった。
三人は担当区画へ入った。
弧を描く主通路から枝分かれした、小さな部屋だった。
壁面には直径一メートルほどの古代術式が刻まれている。円の一部が欠け、その両端は滑らかに整えられていた。
「一例目」
レインは記録帳を開いた。
「切れ目は東南。床から一・二メートル。幅は……」
「待って」
セシリアが木箱を開けた。
リリアから借りた簡易魔力計を三つ取り出す。
一つを壁面術式の切れ目の下へ。
一つを通路との境にある扉枠へ。
最後の一つを、部屋の中央にある床石の上へ置いた。
「警戒術式も展開するわ」
セシリアの指先から淡い魔力線が伸び、入口付近に円を描いた。
「異常があれば、すぐ中断する」
「ああ」
フィンは黒鞄から測量棒と方位器を取り出した。
三人はそれぞれの作業を始める。
レインは壁面術式を写しながら、過去の記録と照合した。
十年前の調査図と比べても、大きな損傷はない。切れ目の幅も一致している。
魔力計の針は動かなかった。
記録上、この術式は停止している。
特に異常は見当たらない。
「部屋の横幅、七・八メートル。奥行き、六・一」
フィンが測量結果を書き込む。
「隣室との壁は、平面図より少し厚いな」
「どのくらい?」
「二十センチくらい。測り方の違いかもしれないけど」
レインが壁面術式の外周を描き終えた時だった。
切れ目の下へ置いた魔力計の針が、わずかに揺れた。
「動いたわ」
セシリアがすぐに記録する。
針は北側を指していない。
真下へ傾いていた。
「床の下?」
フィンがしゃがみ込む。
「触らないで」
「分かってる」
床は四角い石板を組み合わせて作られている。
最初は石板の継ぎ目にしか見えなかった。だが壁面術式の切れ目から下へ視線を移すと、一本だけ不自然に細い線が床まで続いている。
レインは床へ顔を近付けた。
魔法陣の線は壁だけで終わっていない。
床石の継ぎ目へ紛れ、そのまま部屋の中央へ伸びていた。
「壁面術式から、床へ経路が続いてる」
「どこまで?」
「ここからは見えない」
フィンが黒鞄を開いた。
片腕を中へ差し入れる。
鞄の深さは、外から見れば三十センチもない。それでもフィンの腕は肘を越えて沈み、底へ触れる様子がなかった。
「何を探しているの?」
「測定糸。銀色の先端が付いてるやつ」
黒い内張りの奥で、何かが小さく触れ合う音がした。
しばらくして、フィンは細い糸を巻いた円形の器具を引き出した。
「その鞄、どうなってるんだ?」
レインが尋ねる。
「俺も知らない。欲しい道具を考えて手を入れると、だいたい近くへ来る」
「入っている場所は分からないの?」
「底に触ったこともない」
フィンは測定糸を床の線へ沿わせた。
銀色の先端が、かすかな魔力へ反応して青く光る。
糸は部屋の中央を通り、扉の方へ続いていた。
「隣の通路まで伸びてる」
「壁の術式だけ記録しても、全体は分からないわね」
セシリアの言葉に、レインは頷いた。
リリアの指示がなければ、床の細い線を石板の継ぎ目として見落としていたかもしれない。
「扉枠の計器も確認しよう」
三人が入口へ移動する。
その瞬間だった。
簡易魔力計の針が、一斉に跳ねた。
壁際の計器は西。
扉枠の計器は北東。
床の中央に置いた計器は真下。
三つとも違う方向を指している。
「故障?」
フィンが言った。
「三つ同時に?」
セシリアは警戒術式を確認する。
「生物反応はない。外から何かが入ったわけでもないわ」
レインは平面図を床へ広げた。
三つの計器を置いた位置から、それぞれの針が指した方向へ線を引く。
三本の延長線は、別々の通路を通りながら、一つの場所で交わった。
「中央区画だ」
平面図の中心。
学生には立入りが認められていない制御区画だった。
フィンが測定糸を巻き取る。
「もう少し場所を変えて測れば、確かめられる」
「中断するわ」
セシリアが即座に言った。
「でも」
「三つの計器が同時に異常反応を示した。リリアにもグラハム教授にも、異常があれば離れろと言われたでしょう」
レインは揺れ続ける針を見た。
もう一度測りたい。
計器の方角が本当に中央区画で交わるのか、別の位置でも確認したい。
だが、それは報告した後でもできる。
「分かった。戻ろう」
レインは記録帳を閉じた。
セシリアが計器を回収し、フィンが道具を黒鞄へ戻す。
三人が部屋を出ようとした時、床の線が青白く光った。
壁面術式の切れ目から伸びた光が、床を走る。
部屋の中央を横切り、扉枠を通り抜けた。
光は東側外縁区画の通路を中央へ向かって進んでいく。
「下がって!」
セシリアが防御術式を展開した。
レインたちは壁際へ寄る。
床の奥から、低い音が届いた。
一度。
間を置いて、もう一度。
石床を通して足裏へ伝わる振動は、遠くで巨大な鐘が鳴ったようだった。
あるいは、長い間眠っていた何かの鼓動。
光は中央区画の方向へ消えた。
直後、さらに遠くの北側で扉の軋む音が響いた。
「退避するわ」
今度は誰も反対しなかった。
セシリアが通信札を折る。
札の中央に光が走ったが、すぐに消えた。
「届いていない?」
「魔力が乱れてる。ここを出てからもう一度試すわ」
三人は主通路へ出た。
フィンが先頭に立ち、南側非常口を目指す。
「二つ目の交差点を右だ」
一つ目の交差点を通過する。
壁の番号札は地図と一致していた。
その先の通路を進む。
歩いても、二つ目の交差点が見えてこない。
現れるのは同じような石壁と、一定間隔に並ぶ照明石だけだった。
「待ってくれ」
フィンが足を止める。
「どうしたの?」
「こんなに遠くないはずだ」
「道を間違えた?」
「曲がったのは一度だけだ。番号札も合ってる」
フィンは方位器を確かめる。
「方向も南。地図どおりなら、もう交差点が見えてる」
レインは後ろを振り返った。
担当区画の入口は照明の向こうに隠れ、もう見えない。
「どのくらい違う?」
「地図では百メートルもない。今ので、少なくとも百五十は歩いた」
「歩数を数えていたの?」
「遺跡に入ったら、退路までの距離は数える」
フィンは平面図の通路を指でなぞった。
「道は合ってる。距離だけが伸びてる」
石が擦れる重い音が、壁の向こうから聞こえた。
三人が身構える。
目の前の壁に刻まれていた細い線が青白く光った。
線は縦に走った後、左右へ分かれる。
壁面の石がゆっくり奥へ沈み、平面図にはない分岐が現れた。
「遺跡が動いてる」
フィンが呟く。
「機械的に壁を動かしているだけかもしれない」
レインは光る線を見た。
「でも、通路の距離まで変わってる。施設全体が、経路を組み替えてるのかもしれない」
「かもしれない、で十分よ」
セシリアは新たな分岐から距離を取った。
「今は出口を探す」
背後から足音が近付いた。
「第七班!」
ダニエルが通路の向こうから走ってくる。後ろには第六班の学生三人がいた。
「無事か?」
「怪我はありません。通信札が作動しませんでした」
「こっちもだ。南側非常口までの経路が変わってる。正面入口へ戻る」
ダニエルは新しく現れた分岐を一瞥した。
「誰も入るな。壁からも離れろ」
一行は来た道を正面入口へ向けて戻り始めた。
フィンがダニエルの隣で方位と距離を確認する。
「次の交差点は左です」
「地図ではな」
「今のところ、方向は合ってます」
「距離は?」
「三割くらい長い」
通路のあちこちで石の擦れる音が続いている。
壁の線が点灯し、床へ流れ、別の通路へ消えていく。
単に部屋が動いているのではない。
光の経路に合わせて、遺跡が自分の形を描き直している。
ようやく外縁部の主通路へ出た時、正面入口側から避難誘導の声が聞こえた。
ほかの班も異常に気付き、撤収を始めているらしい。
「ここからは一本道だ。走れ!」
ダニエルの指示で、学生たちが入口へ向かう。
レインも走り出した。
その時、再び地鳴りが起きた。
先ほどの低い振動とは比べものにならない。
足元が大きく跳ね、天井から砂と小石が降り注ぐ。
「止まるな!」
ダニエルが叫ぶ。
床に刻まれた線が一斉に光った。
光は中央区画へ向けて走り、遅れて北側へ流れていく。
次の瞬間、主通路の床へ亀裂が走った。
地面が沈む。
前を走っていた第六班の学生が足を取られた。
レインは反射的に腕をつかみ、入口側へ押し出した。
「走れ!」
学生がダニエルに引き上げられる。
代わりに、レインの足元が崩れた。
身体が傾く。
伸ばした手は石床の縁へ届かなかった。
「レイン!」
黒い縄が飛んできた。
先端の輪がレインの右腕へ巻き付く。
落下が止まり、肩に強い衝撃が走った。
見上げると、フィンが両手で縄を握っている。黒鞄は開いたまま、床の上に転がっていた。
「離すなよ!」
「言われなくても!」
セシリアが崩落箇所の縁へ防御術式を展開する。
半透明の足場が生まれ、崩れ続ける石板を支えた。
「今のうちに引き上げて!」
フィンとダニエルが縄を引く。
レインの身体が少しずつ上がる。
あと数メートル。
その時、崩落した空間の下で青白い光が灯った。
光は床の断面を走り、レインの足元を囲む。
細い線が円を描いた。
これまで見てきた古代術式とは違う。
外周に切れ目がない。
「何だ、これ」
円が閉じた。
音はしなかった。
縄が切れた感触もなかった。
それでも、フィンの手からレインの重みが消えた。
「レイン?」
声だけが遠ざかる。
青白い膜が視界を横切った。
フィンも、セシリアも、崩れた通路も見えなくなる。
レインの身体は再び落下した。
空気が耳元で唸る。
やがて背中へ激しい衝撃が走り、息が止まった。
◇
どれほど気を失っていたのかは分からない。
レインが目を開くと、あたりは暗闇に包まれていた。
身体を起こそうとする。
右肩と脇腹に痛みが走り、力が抜けた。
息を吸うだけで胸の奥が軋む。
上にあったはずの崩落口は消えていた。
代わりに、はるか頭上で青白い円が閉じている。
「フィン!」
返事はない。
「セシリア!」
自分の声が暗い空間へ吸い込まれていく。
右腕には、フィンが投げた縄が巻き付いたままだった。
レインは震える手で縄をたぐった。
すぐに反対側の先端が落ちてくる。
切れた跡はない。
焼けても、裂けてもいない。
ただ、最初から何にもつながっていなかったように、滑らかな先端だけが残されていた。
レインは頭上の円を見上げた。
開いた外周は、別の術式を受け入れる。
では、完全に閉じた円は。
痛みをこらえ、壁へ手をつく。
指先の近くで、古い線が一瞬だけ青く光った。
暗闇の奥から、何かが起動するような低い音が聞こえた。




