第7話 時計塔の修復師
それでも、レインは帰らなかった。
フィンもセシリアも、扉へ向かう様子はない。
床には、倒れた工具箱からこぼれた道具が散らばっている。細い金属棒。先端の曲がった挟具。術式線を削るためらしい小さな刃。その間を縫うように、油で汚れた紙が何枚か落ちていた。
リリアは三人が動かないことに気づくと、床へ伸ばしかけた手を止めた。
「まだ何も聞いてません」
「今ので、聞く権利を一つ失った」
リリアは顔をしかめ、床に散らばった工具を拾い始めた。
フィンが黙って近くの工具を拾い、箱へ戻していく。
セシリアも小さく息を吐いてから手伝った。
レインは一瞬迷い、報告書を開いた。
「この術式について聞きたいんです」
「鑑定なら料金を取るけど」
「第八補助遺跡で見つけました」
リリアの手が止まった。
レインは壁面術式を写したページを差し出した。
リリアは紙を受け取る。
初めは大して興味もなさそうに眺めていた。
しかし、外周の切れ目へ視線を落とした瞬間、表情がわずかに変わった。
「これは、どこの区画?」
「貯水区画です」
「壁面の向きは?」
「水路に対して東側。床から一メートルほどの高さです」
「切れ目の幅は測った?」
「記録してあります」
リリアは紙を机へ置き、積み上げられた資料の中から古い紙束を引き抜いた。
別の紙が何枚も床へ落ちたが、気にする様子はない。
広げられた紙束には、複数の古代術式が描かれていた。
形も大きさも異なる。
発見場所についての記録も違っている。
それでも、すべての術式に外周の切れ目があった。
リリアはレインの記録を、その横へ並べた。
「それで?」
「何がですか?」
「あなたは、この切れ目が何だと思ったの?」
レインは机に並んだ術式へ目を向けた。
経年劣化。
施工時の痕跡。
安全のための遮断。
すでに多くの説がある。
どれも否定できない。
だからといって、どれかを正しいと決める証拠もない。
「分かりません」
リリアはしばらく黙っていた。
やがて、わずかに口元を緩める。
「名前は?」
「レイン・アークライトです」
「そう。アークライト。なら、話くらいは聞いてあげる」
リリアは机の端へ積まれていた本をまとめて床へ下ろした。
空いた場所に、レインの記録と自分の資料を並べる。
「一つ確認しておくけど、外周欠損部という呼び方は好きじゃない」
「どうしてですか?」
「欠損と呼んだ時点で、本来は閉じていたと決めつけているから」
リリアはレインが写した術式の切れ目を指先でなぞった。
「経年劣化説、施工痕説、安全遮断説。どれも検討する価値はある。でも、どの説も一つの前提から始まってる」
「魔法陣の外周は、閉じていなければならない」
セシリアが言った。
「現代魔法ではね」
リリアは机の上から一枚の紙を取り上げた。
そこには、レインが見たものより簡単な古代術式が描かれていた。
外周には、同じような切れ目が残されている。
「これは私が再現した術式よ」
「古代術式を再現できたんですか?」
「最後まで遮らずに聞いて」
リリアの声が少し低くなった。
「形だけは再現できた。でも動かせたのは、ほんの数秒だけ」
「その数秒で、何が起きたんですか?」
リリアは別の紙を隣へ置いた。
二つ目の紙には、現代式の簡単な照明術式が描かれている。
「外周が開いていれば、普通は魔力が漏れる。術式は形を保てずに消えるはずだった」
「違ったんですか?」
「魔力は漏れなかった」
レインは紙の上の切れ目を見た。
「では、どこへ?」
「どこにも行ってない。切れ目の直前で止まったの」
セシリアが眉を寄せる。
「魔力が流れているのに、外へ出なかった?」
「少なくとも、私が測った限りではね」
リリアは二枚の紙を近付けた。
「そこで、別の術式を隣へ置いた」
「まさか、つながったのか?」
フィンが尋ねた。
「つながりかけた」
リリアは古代術式の切れ目を指差した。
「切れ目から新しい魔力線が伸びて、隣の術式へ接続しようとした。私は何も描き加えていないのに」
レインは机に並んだ二つの術式を見比べた。
現代の魔法陣は、完成した時点で外周が閉じる。
後から別の術式を加えるには、一度停止させて描き直す必要がある。
だが古代術式は、自ら別の術式へ線を伸ばしたという。
「それなら、この切れ目は……」
「別の術式と接続するためのものかもしれない」
リリアは淡々と言った。
「少なくとも、私はそう考えた」
「接続する相手は、どうやって選ぶんですか?」
セシリアが尋ねた。
リリアは彼女へ視線を向ける。
「分からない」
「ただ近くにある術式へ接続しただけかもしれない?」
「その可能性もある。特定の術式だけを選んだ可能性も、私が気付いていない条件があった可能性もね」
「安全装置はなかったんですか?」
「もちろん用意したわ」
「それでも事故になった?」
リリアはすぐには答えなかった。
机の上に置かれた二枚の術式を見下ろす。
「古代術式が、安全装置を別の接続先として認識した可能性がある」
「安全のための術式へ、接続しようとしたということ?」
「可能性の話よ。接続が始まった直後、測定値が乱れて記録も正確に残らなかった」
リリアは机の隅に置かれていた革手袋を持ち上げた。
片方だけだった。
指先の伝導糸は黒く焼け、革の一部が裂けている。
手首の部分には、古い学院の紋章がかろうじて残っていた。
「接続が完成する直前に、魔力経路が崩れた」
その声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
「現代の術式手袋では、古代術式に必要な精度を維持できなかった。線のずれが広がって、二つの術式が互いの魔力を奪い始めた」
「それで、どうなったんですか?」
リリアは焼けた手袋を裏返した。
「事故になった」
短い答えだった。
それ以上を話すつもりはないらしい。
「でも、接続しようとしたのは確かなんですよね」
レインが尋ねる。
「私の記録が正しければね。ただし、同じ結果を再現できなかった。再現できない実験は証明にはならない」
「もう一度、試さなかったんですか?」
リリアの目がレインへ向いた。
先ほどよりも鋭い視線だった。
「一度目の失敗から何も学ばず、同じ条件でもう一度試すことを研究とは呼ばないわ」
レインは何も答えられなかった。
「興味を持つことは悪くない。でも、興味だけで術式へ魔力を通さないこと。失敗した時に傷つくのが自分だけとは限らないから」
リリアは焼けた手袋を机へ戻した。
その言葉が誰に向けられたものなのか、レインには分からなかった。
少なくとも、目の前の三人だけに向けられた忠告ではなさそうだった。
時計塔の中へ、短い沈黙が落ちる。
フィンが最後の工具を箱へ戻した。
「これで全部か?」
リリアが工具箱の中を確認する。
「一本足りない」
「どんなやつだ?」
「魔力計の調整棒。銀色で、先端が二つに分かれてる」
フィンは床や机の下を見回した。
やがて黒鞄を下ろし、留め金を外す。
「代わりになるか分からないけど、魔力計ならあるぞ」
鞄へ手を入れ、円盤状の小さな器具を取り出した。
手のひらほどの大きさで、表面には細い針と目盛りが付いている。
外周を覆う金属には、細かな術式が刻まれていた。
リリアは器具を受け取る。
「探索科の学生が、どうしてこんなものを持ってるの?」
フィンの胸にある探索科の紋章を一瞥する。
「必要になるかもしれないから」
「学院の支給品ではないわね」
「家にあったやつだ」
リリアは円盤を裏返した。
裏面へ刻まれた術式を見た瞬間、その指が止まった。
ほんのわずかな変化だった。
だが、レインには何かに気付いたように見えた。
「これ、誰から受け取ったの?」
「だから、家にあったんだって」
「家の誰が使っていたかは?」
「知らない。昔から黒鞄に入ってた」
リリアはフィンの足元に置かれた黒鞄へ目を向けた。
その表面には細かな傷が刻まれ、使い込まれた革には鈍い艶が残っている。
「その鞄も同じ?」
「ああ。これも家にあったものだ」
「そう」
リリアはそれ以上聞かなかった。
魔力計をフィンへ返す。
「使えるか?」
「型は古いけど、壊れてはいない。今度からもう少し丁寧に扱いなさい」
「十分丁寧に扱ってるぞ」
「床に置いてるでしょう」
「鞄は床に置くものじゃないのか?」
「物によるわ」
フィンは納得していない様子だったが、黒鞄を壁際の椅子へ移した。
レインは再び、机の上の術式を見た。
切れ目は壊れた跡ではない。
別の魔法陣を受け入れるために残された場所かもしれない。
けれど、何とつなぐためのものなのか。
接続した後、何が起こるのか。
答えが一つ見えたと思った途端、その先にいくつもの疑問が生まれていた。
「本当に調べたいなら、まず比較資料を作りなさい」
リリアが薄い記録帳をレインの前へ置いた。
「発見場所、方角、高さ、切れ目の幅、周囲の記号。接続部だと仮定するなら、何と接続するために置かれたのかを調べる必要がある」
「どのくらい集めればいいですか?」
「最低でも十例」
「十例も、どこで見つけるんですか?」
「それを探すのが研究でしょう」
グラハムと似ている。
やはり、答えを渡してくれるつもりはないらしい。
リリアは別の紙をフィンの前へ置いた。
「あなたは、術式が見つかった場所の地図を調べて」
「俺もやるのか?」
「接続部だと仮定するなら、術式だけ見ても接続先は分からない。周囲の部屋や通路、別の設備との位置関係も必要になる」
「嫌だと言ったら?」
「次から入れない」
「やる」
フィンは即答した。
リリアは最後にセシリアを見る。
「あなたは現代術式で、外周を閉じなかった場合の魔力変化を記録して」
「再現実験をするんですか?」
「古代術式ではなく、基礎的な現代術式で確かめるだけ。出力は最低まで落として、学院の安全結界内で行うこと」
「分かりました」
「勝手に条件を変えないで。少しでも異常があれば中止する。守れなければ、二度とここには入れないから」
「そのつもりです」
セシリアは真っ直ぐに答えた。
リリアは少しだけ満足そうに頷く。
レインは渡された記録帳を開いた。
最初の頁には、調査するべき項目が細かな字で書き込まれている。
術式の寸法。
刻まれた素材。
切れ目の方角。
周囲に存在する別の術式。
遺跡内における位置。
レインが第八補助遺跡で記録したものより、ずっと細かい。
「これを全部調べるんですか?」
「何か問題でも?」
「次の実習だけでは、十例も見つからないかもしれません」
「それなら、その次も調べればいい」
「期限は?」
「急ぐ必要はないわ」
リリアは机に積まれた古代術式の記録を見た。
「雑な十例より、確かな一例の方が役に立つ」
グラハムも同じことを言いそうだった。
レインは記録帳を閉じる。
「それをまとめたら、また来てもいいんですか?」
リリアは少し考えた。
それから、床に残された工具へ視線を向ける。
「次からは手ぶらで来ないで」
「料金ですか?」
「工具を拾う人手」
工具箱を片付け終えていたフィンが顔を上げる。
「もう拾ったぞ」
「なら、次もあなたは入っていいわ」
「俺だけ?」
「残りの二人は今後の働き次第」
セシリアが呆れたように息を吐いた。
「随分と勝手な基準ね」
「ここは私の店だから」
リリアはそう言って、ひらひらと手を振った。
三人が時計塔を出ようとした時、背後から声が飛んできた。
「ブラックウッド」
フィンが振り返る。
リリアの目は、椅子の上に置かれた黒鞄へ向いていた。
「その鞄、大事にしなさい」
「言われなくても、そのつもりだけど」
「ならいいわ」
リリアはそれだけ言うと、机の上の術式へ視線を戻した。
フィンは一瞬だけ首を傾げたが、何も聞かずに扉を開けた。
三人は時計塔を出た。
外には夕暮れの空が広がっていた。
止まった時計の文字盤が、傾いた陽光を受けて赤く染まっている。
閉じない円の答えは、まだ見つかっていない。
それでも、何を調べるべきかは見えてきた。
レインは一度だけ時計塔を見上げ、それからフィンとセシリアの後を追った。




