第3話 遺跡学科
目を覚ました時、レインの視界には木の板が広がっていた。
見知らぬ天井にしては、やけに近い。
しばらく眺めてから、二段ベッドの下段で寝ていることを思い出した。
窓の外はまだ薄暗い。
部屋の中から、規則正しい寝息が三つ聞こえている。
レインは毛布を抜け出し、枕元に置いた懐中時計を開いた。
起床を知らせる鐘が鳴るまで、あと十五分ほどある。
昨日配られた時間割を手に取る。
一限目は遺跡学概論。
古代文明学部の遺跡学科に所属する学生だけが受ける必修科目だった。
担当教員の欄には、グラハム・ブラックウッドと記されている。
聞いたことのない名前だった。
レインは時間と教室の場所を確認し、資料を鞄へ戻した。
ほどなくして、学院の時計塔から鐘が鳴り始めた。
低く重い音が、朝の静けさを揺らす。
上段から毛布の端が落ちてきた。
少し遅れて、フィンの腕が垂れ下がる。
「朝か?」
「そうらしい」
「まだ暗いぞ」
「鐘が鳴ってる」
「鐘が間違ってるかもしれない」
「学院の時計塔を疑うのか」
「俺は俺の感覚を信用してる」
フィンはそう言ったきり動かなくなった。
再び眠ろうとしているらしい。
「起きなくていいのか」
「あと五分」
「講義に遅れるぞ」
「あと三分」
「減ったな」
「譲歩した」
レインはフィンの毛布を拾い、丸めて上段へ投げ返した。
毛布はそのままフィンの顔を覆った。
「息ができない」
「起きればいい」
しばらくして、フィンは渋々起き上がった。
二人が食堂へ着いた頃には、すでに多くの学生が朝食を取っていた。
長い卓上にパンやスープが並び、眠そうな新入生と、慣れた様子の上級生が同じ空間を行き交っている。
フィンは山盛りのパンを皿へ載せた。
「朝からよく食べられるな」
「探索科は体力が必要なんだ」
「まだ講義も受けてないだろ」
「今日から必要になる」
フィンはそう言ってパンへかじりついた。
食事を終えると、二人は中央広場まで一緒に歩いた。
そこから先は別々だった。
探索科の講義棟は学院の西側にあり、遺跡学科の講義室は北側の古代文明学部棟に置かれている。
「昼は食堂でいいか?」
フィンが尋ねた。
「分かった」
「途中で遺跡に迷い込むなよ」
「学院の中に遺跡があるのか?」
「知らないけど、お前なら見つけそうだ」
フィンは片手を上げ、探索科の学生たちが歩いていく方へ走っていった。
レインはその背中を見送ってから、北側の回廊へ向かった。
古代文明学部棟は、学院のほかの建物よりも古く見えた。
壁には蔦が絡まり、窓枠の一部は新しいものへ交換されている。
入口の上には、杖と開かれた書物を組み合わせた学部の紋章が刻まれていた。
建物の内部は静かだった。
戦術魔法科の棟から聞こえていた掛け声も、魔法工学科の工房から響く金属音もない。
時折、紙をめくる音や、遠くで扉の閉まる音が聞こえるだけだ。
講義室へ入ると、すでに十人ほどの学生が席についていた。
レインは後ろから二列目の席を選んだ。
最前列へ座るほど熱心に見られたくはないが、教員の話が聞こえない場所も困る。
しばらくすると、残りの学生も集まってきた。
全員が揃っても十六人だった。
講義室の広さに比べて、空席の方がはるかに多い。
「本当に人気がないんだな」
斜め前に座っていた男子学生が呟いた。
冗談なのか本気なのかは分からない。
誰も返事をしなかった。
鐘が鳴った。
ほぼ同時に、講義室の扉が開いた。
一人の男が入ってくる。
年齢は四十代半ばほどだろう。
手入れされた黒髪に、鋭い灰色の目。
漆黒の長い外套の袖には、何かで焼けたような跡が残っている。
男は教卓へ分厚い本を置いた。
黒板へ向かい、白い石筆で名前を書く。
グラハム・ブラックウッド。
レインは時間割で見た名前を思い出した。
「グラハム・ブラックウッドだ」
男は学生たちを見渡した。
「古代術式学及び遺跡機構学を専門としている」
低い声が講義室へ響く。
「本年度は遺跡学概論、古代術式解析、遺跡機構調査実習を担当する」
そこでグラハムは一度言葉を切った。
「学院遺跡調査実習部門の責任者でもある」
何人かの学生が姿勢を正した。
遺跡機構調査実習では、学生が実際の遺跡へ入る。
その責任者ということは、これから何度も顔を合わせるはずだ。
「最初に忠告しておく」
グラハムは教卓へ両手を置いた。
「過去への憧れだけでこの学科を選んだ者は、早めに転科を考えた方がいい」
講義室の空気が少し重くなった。
「遺跡は君たちを歓迎しない。歴史を教えるために存在しているわけでもない」
「君たちの知的好奇心を満たす義務など、当然ながら持っていない」
レインは黙って話を聞いていた。
「そこにあるのは、目的の分からない装置と、読み方の分からない術式と、今なお動き続ける防衛機構だ」
「正しい判断ができなければ死ぬ」
誰も物音を立てなかった。
「それでも学びたい者だけ残ればいい」
転科しようと立ち上がる学生はいなかった。
グラハムはその様子を見ても、特に満足そうな顔はしなかった。
「では始める」
教卓の引き出しから、一組の革手袋を取り出した。
黒に近い焦げ茶色で、指先には銀色の伝導糸が縫い込まれている。
魔法使いが術式を描くために使う、標準的な術式手袋だった。
グラハムは右手へ手袋をはめた。
人差し指を空中で横へ動かす。
指先の軌跡に青白い光が残った。
続けて円を描き、その内側へ三つの記号を書き込んでいく。
「現代魔法は、体系化された基礎術式の組み合わせによって成り立っている」
最初の記号が赤く光った。
「属性」
二つ目の記号が光り、赤い魔力が球形へ集まっていく。
「形状」
最後の記号が細長く伸び、魔力の向きを定める。
「方向」
グラハムが軽く指を振った。
赤い光球が講義室の端に置かれた金属板へ飛び、表面に小さな焦げ跡を残した。
「火属性、球形、直進」
じろりと講義室を見渡す。
「単純な火球の術式だ」
魔法陣が青白い粒子となって消えていく。
「諸君も基礎教育で同じものを学んだはずだ」
何人かの学生が頷いた。
「これから四年間、君たちは既知の術式ではなく、我々に理解できないものと向き合うことになる」
グラハムは再び黒板へ向かった。
石筆が滑り、新しい図形を描いていく。
先ほどの火属性術式と、どことなく似ていた。
だが線の数が違う。
現代術式なら一つの記号で済む箇所に、細い線が複雑に重なっている。
外周には、一箇所だけ途切れている部分があった。
描き損じにも見える。
だが、それにしては切れ目が整いすぎていた。
「北方の第三種遺跡で発見された術式の複写だ」
一人の女子学生が手を挙げた。
「何の魔法ですか?」
「分からん」
グラハムは即答した。
学生たちの間に、わずかな戸惑いが広がった。
「火属性術式との類似を指摘する研究者はいる」
グラハムは、先ほど描いた現代術式を石筆の先で示した。
「しかし、似ていることと同じ機能を持つことは別だ。発掘された場所も、使用目的も判明していない」
「現時点では用途不明の術式としか記録できん」
レインは二つの図形を見比べた。
古代術式の外周には、やはり一箇所だけ切れ目がある。
偶然欠けたようには見えなかった。
考えてから手を挙げる。
「何だ」
「外側の切れ目は、発掘された時に壊れたものですか」
グラハムの視線がレインへ向いた。
「違う」
「同じ形状を持つ術式が、別の遺跡でも三例確認されている」
「なら、意図的に開けられている可能性があるんですか」
「可能性はある」
グラハムは石筆の先を、外周の切れ目へ当てた。
「では、何のために開いている?」
今度はグラハムから質問が返ってきた。
レインはもう一度、黒板を見た。
先ほどの火球術式は、魔力を逃がさないように円が閉じられていた。
古代術式の切れ目にも、何か理由があるはずだ。
だが今ある情報だけでは分からない。
「分かりません」
「それでいい」
意外な返事だった。
グラハムは黒板へ向き直った。
「分からないことを、分かったように説明するな」
「似ているものを、同じものだと決めつけるな」
グラハムと目が合った気がした。
「自分の仮説に都合のいい事実だけを拾うな」
石筆が教卓へ置かれる。
「研究者が最初に覚えるべきことだ」
グラハムは学生たちを見渡した。
「遺跡は沈黙している」
「こちらから正しい問いを向けた時にだけ、過去の一部を見せる」
入学式で聞いた学長の言葉が、レインの頭に浮かんだ。
正しい答えより、正しい問いの方が価値がある。
エリオスは可能性について話していた。
グラハムはもっと現実的な話をしているように聞こえた。
「質問はあるか」
教室は静かだった。
「ないなら、課題を出す」
途端に、何人かの学生が嫌そうな顔をした。
「本日示した古代術式について、発掘報告を参照し、確認されている事実だけをまとめろ」
「自分の推測を加える場合は、必ず事実と分けて記載すること」
鐘が鳴った。
講義の終了を知らせる音だった。
学生たちは緊張から解放されたように息を吐いた。
グラハムは教卓の資料をまとめる。
「提出は次回の講義開始時だ」
それだけ告げ、講義室を出ていった。
扉が閉まる。
同時に教室内がざわつき始めた。
「初日から課題かよ」
「転科しろって本気で言ってたのか?」
「怖すぎるだろ」
不満と戸惑いの声が飛び交う。
レインは黒板に残された古代術式を見つめていた。
外周に残された小さな切れ目。
別の遺跡でも、同じものが確認されている。
ならば描き損じでも、偶然の損傷でもない。
何かのために、意図的に残されたものだ。
「面白いな」
口に出してから、周囲の学生がこちらを見ていることに気付いた。
レインは何も言わず、教科書を鞄へしまった。
昼休み。
食堂へ向かうと、入口の近くでフィンが待っていた。
髪には細かな木屑が絡み、制服の袖には土が付いている。
「何があったんだ」
「聞くな」
「探索科の講義だろ」
「朝から障害物訓練だった」
フィンは疲れ切った顔で袖を払った。
「そっちは?」
「遺跡学概論」
「面白かったか?」
「思っていたより」
「その顔は本当に面白かったやつだな」
「どんな顔だ」
「今すぐ課題をやりたそうな顔」
否定しようとしたが、完全には否定できなかった。
「担当は?」
「グラハム・ブラックウッド教授」
フィンの動きが一瞬だけ止まった。
ほんのわずかな間だった。
すぐに何事もなかったように歩き出す。
「厳しかっただろ」
「知ってるのか?」
「有名だからな」
フィンはそれ以上話さなかった。
レインも深くは聞かなかった。
二人は並んで食堂へ入る。
レインの頭には、黒板に描かれた古代術式が残り続けていた。
現代の術式に似ている。
だが、同じとは限らない。
外周に残された切れ目が何を意味するのかも分からない。
まだ答えはない。
問いと呼べる形にすら、なっていないのかもしれない。
それでもレインは、知りたいと思った。




