第17話 可能性という罠
医務棟で診察を受けた後も、右肩の固定具は外れなかった。
治療師は実技と強い魔力使用、それから遺跡調査の禁止をもう一度告げた。レインは頷き、セシリアはその言葉を一つずつ拾うように聞いていた。
学長室で聞かれたことを、レインはその場では話さなかった。
廊下には学生の声が残っていた。セシリアが一歩近づき、何かを聞きかけたが、レインは小さく首を振った。
「後で話す」
フィンの表情から、いつもの軽さが少しだけ消えた。
「分かった」
セシリアも、それ以上は聞かなかった。
その日の夕方、三人は寮の談話室の隅に集まった。
夕食後の談話室には、まだ人が残っていた。けれど、入口近くの時計が低く鳴る頃には、声もまばらになっていた。
セシリアは周囲を見てから、卓の端へ小さな魔法陣を置いた。淡い光が一度だけ広がり、すぐに消える。
「これで、少し声を落とせば大丈夫」
「普通の声の基準が人によって違う場合は?」
「あなたは小さめにして」
「了解」
フィンは素直に声を落とした。
レインは、学長室であったことを順に話した。学長がアークの名前を知ったこと。排除ではなく観察を選んだこと。体調の異変を隠さないよう言われたこと。アークが身体に何かをする時は、レイン自身が認識している必要があること。
セシリアは途中で口を挟まなかった。ただ、卓の端に置いた指だけが動いていた。真っ直ぐにそろえ、少しずらし、またそろえる。
「つまり、学長は敵じゃない。けど、味方って言い切るには条件が多い」
「たぶん、そういうことだと思う」
「嫌な感じに正確だな」
フィンは椅子の背に顎を乗せた。
「でも、今すぐどうこうされなかったのは良かった。そこは良かったことにしよう」
セシリアが小さくうなずいた。
「ただし、勝手な確認は禁止。今まで以上に」
「分かってる」
「分かっているなら、余計な確認はしないで」
反論できなかった。
胸元の奥で、アークは沈黙している。今ここで問いかければ、何か短い返答があるのだろう。けれど、レインはそうしなかった。
秘密を話している最中に、その秘密へ頼りすぎるのは違う気がした。
「それから」
フィンが椅子を揺らすのをやめた。
「アークと話して、危なそうなことを言われたら教えろ。全部じゃなくていい」
「危ないかどうか分からない時は?」
「その時も言え」
セシリアが視線を上げた。
「私もそう思う。分からないものを、一人で抱えないで」
レインはその言葉を胸の内で繰り返した。
「分かった」
『条件を記録しました』
アークの声が内側に落ちた。
「今、何か言われたな」
「条件を記録したって」
「真面目だな」
「真面目よ。少なくとも、あなたよりは」
「比較対象が俺なのは不利だろ」
ようやく、空気が少し緩んだ。
◇
数日後、右肩の固定具が外れた。
治癒魔法で塞がった傷は、もう外から見ても分からない。肩の奥に薄い重さは残る。それでも、石筆を握る指は思った通りに動いた。
「軽い術式構築なら許可します」
治療師は記録板に署名を入れた。
「ただし、長時間の実技、強い魔力の流入、遺跡調査は禁止のままです。違和感が出たら中止」
「分かりました」
「分かりました、で終わるなら私も楽なのですが」
治療師は記録板を閉じた。
「動けるようになった時ほど、余計なことをします。自分の身体で確かめようとしないでください」
レインは返事に詰まった。
医務棟を出ると、回廊の窓から午後の光が差していた。レインは右手を開き、閉じる。石筆を握る動きも、もうぎこちなくない。
外側は戻った。
けれど胸元の奥には、まだ静かな気配がある。
アーク。
『機能低下は検出されていません』
そうか。
レインは胸元へ向かいかけた手を下ろした。
廊下の先でフィンが待っていた。片手に紙包みを持っている。その横で、セシリアが記録板の写しを確認していた。
「復帰祝い」
「医務棟の粥じゃない。安心しろ」
「食べ物で釣らないで」
「釣ってない。祝ってる」
セシリアは紙から目を離さない。
「軽い構築は可。強い魔力使用は禁止。遺跡調査も禁止。痛みが出たら中止」
「復唱ありがとう、班長」
「そういう役ではないわ」
「今の言い方は班長だった」
レインは二人を見て、少しだけ笑った。
◇
同じ頃、学長室には、積まれた報告書の匂いが残っていた。
グラハムは机の前に立ち、手元の書類を閉じた。第十七遺跡実習に関する報告書は、まだ一冊では収まらない。救助経路、崩落範囲、学生の証言、医務棟の記録。分けておかなければならないものが多すぎた。
学長は茶器を片付けず、冷めた茶をそのままにしている。
「一部講義を、しばらく外れてもらう」
「実習の事後処理ですか」
「それだけではない」
学長は、封を切っていない書類を一枚、机の端へ置いた。
「外から問い合わせが来る前に、こちらの記録を揃えておきたい。君にはそちらを任せる」
「学生への説明は」
「第十七遺跡実習に関する報告と、今後の実習計画再確認。その程度でよい」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
グラハムは一度だけ頷いた。
「古代術式解析は、どうします」
「代講を呼ぶ」
学長は別の書類を開いた。そこには、エリアス・ノートンの名があった。
「魔法災害史の研究者だ。古代術式そのものの専門ではないが、事故記録と災害資料を読む目はある」
「ノートン教授ですか」
「知っているのかね」
「論文を読んだことはあります」
「評価は」
グラハムはすぐには答えなかった。
「記録を捨てない人です」
「それはよいことに聞こえるが」
「よいことです」
そこで、グラハムは言葉を切った。
「ただ、人当たりがよすぎます」
学長は茶器へ視線を落とし、少しだけ笑った。
「それは欠点かね」
「場合によります」
「今回の場合は?」
「学生が、自分の見たものに早く名前を付けたくなる」
学長は答えなかった。
グラハムは続ける。
「分からないものは、分からないまま持ち帰ればいい。記録して、比較して、次の観測を待てばいい。ですが、優しい言葉は、それを意味に変えてしまうことがある」
「君らしい警戒だ」
「必要な警戒です」
学長は書類を閉じた。
「だから、君にも見ていてもらう」
グラハムは、わずかに眉を寄せた。
「授業を外れるのでは」
「表向きはね」
学長は穏やかに言った。
「教室に立つ必要はない。だが、あの授業で何が渡されるかは、知っておいた方がよい」
グラハムは返事をしなかった。
机の上には、まだ封を切られていない書類がある。
学院の外へ続く紙の端が、そこに見えていた。
◇
古代術式解析の教室は、いつもより落ち着きがなかった。
グラハムの授業の日は、開始前から学生たちも自然に声を落とす。今日はその声が、少しだけ残っている。教卓の横には、一枚の知らせが貼られていた。
グラハム教授は、第十七遺跡実習に関する報告および今後の実習計画再確認のため、しばらく一部講義を離れる。
代講として記されていた名は、エリアス・ノートンだった。
「グラハム教授じゃないんだ」
「少し助かったかも」
「声、聞こえるぞ」
前列で学生たちが小さく笑う。
少し離れた席で、制服の襟飾りを指で整えていた男子生徒がこちらを見た。隣の二人が、その動きに合わせるように顔を上げる。
「事故の事情を知ってる班には、代講も特別に説明してくれるのかな」
声は大きくない。けれど、聞こえるように言っていた。
取り巻きらしい一人が小さく笑う。もう一人は、机の上の資料を伏せたまま、第七班の方を見ていた。
フィンの眉がわずかに動く。
「自己紹介前から元気だな」
「君に話しかけたわけじゃない」
「聞こえたから返しただけだ」
セシリアが机の端をそろえた。
「授業前よ」
短い一言で、フィンは口を閉じた。男子生徒はつまらなさそうに視線を戻す。
鐘が鳴る少し前に、扉が開いた。
入ってきた男は、グラハムより若く見えた。淡い灰茶の髪を後ろで緩く束ね、教卓へ資料を置く動作にも急かすところがない。
男は教室を見渡し、学生たちが黙るのを待ってから、黒板へ名前を書いた。
エリアス・ノートン。
「急な交代で驚かせてしまいましたね。エリアス・ノートンです。専門は魔法災害史です」
声は柔らかかった。
「過去の魔法事故や災害記録を読み、何が確認され、何が分からなかったのかを調べています。しばらく、古代術式解析を担当します。呼ぶ時は、ノートン教授で構いません」
学生たちの間に、小さなざわめきが走った。
ノートンはそれを責めるようには見なかった。
「グラハム教授の代わりになるつもりはありません。あの方の授業には、あの方の必要な厳しさがあります。私の授業では、少し別の見方を扱います」
グラハムの声は、教室の中の余計なものを削る。ノートンの声は、逆に余白を作るようだった。
「今日は、答えを覚える授業にはしません」
ノートンは資料を一枚、黒板へ留めた。
「まず、同じ事故記録に添付された術式写しを二枚見比べます。違う場所を探してください」
黒板に貼られたのは、遺跡壁面から写し取られた古い術式図だった。もう一枚も同じ資料束に含まれていたものらしい。線の濃さや記号の傾きが少しずつ違っている。
石筆を置き、学生たちを見る。
「理由は後で構いません。まずは、見えたものだけを言ってください」
教室のあちこちで紙が鳴った。
「右の写しは、中央の印が二重になっています」
「左の方が線が薄いです」
「上の記号が、少し傾いています」
出てくる答えを、ノートンは一つずつ黒板の端へ書いた。それ以上の評価はしない。
さっきの男子生徒が手を挙げた。
「第十七遺跡の資料ですか」
教室の空気が少し止まった。
隣の二人が、反応を見るように第七班の方へ目を向ける。
レインは石筆を持つ指に力が入るのを感じた。
ノートンは、すぐには答えなかった。黒板の資料へ視線を戻し、それから男子生徒を見る。
「違います。今日使うのは、公開保存資料です」
「でも、今この授業で扱うなら、関係があるのかと思いました」
「関係があるかどうかを、資料なしに決めることはできません」
ノートンの声は柔らかいままだった。
「今は、目の前の写しを見てください」
男子生徒は肩をすくめた。隣の一人が笑いかけ、もう一人はそれを途中でやめた。
フィンは何も言わなかった。ただ、机の下で足の位置を変える。
レインは二枚の写しを見比べた。
第十七遺跡で見た青白い光とは違う。動いているわけではない。紙の上に残された、古い線の写しだ。
それでも、完全に別の話にも思えなかった。
アーク。
『断定不能』
短い返答が返る。
レインは息を吐いた。断定できない。その言葉は、今はむしろ自然だった。
「では、次です。この違いは、何として扱うべきでしょう」
今度は手が上がるまで少し時間がかかった。
「損傷」
セシリアが言った。
「模写の癖。魔力汚染。保存状態の差。まずはそのどれかとして分けるべきです」
「安全な答えです。そして、今の研究で最初に選ばれる答えでもあります」
ノートンは、右の写しの中央に丸を付けた。
「では、これはどうでしょう。損傷として処理してもいい。模写の癖として処理してもいい。けれど、もし後から誰かが触れた跡だったら」
教室が静かになった。
説明ではなく、問いが置かれた。
レインは石筆を握る右手に意識を向けた。肩は痛まない。
「そこだけ、別の作業があったことになります」
声は大きくなかった。
それでも、教室のいくつかの視線がこちらへ向く。セシリアも動いた。フィンは机の上で指を一度だけ叩いた。急ぐな、という合図のように見えた。
ノートンはすぐに褒めなかった。
少しだけ資料を見て、それからレインへ視線を戻す。
「いいですね」
「別の作業があった、と見る。まだ誰が、いつ、何のために、までは言えません。ですが、見えた違いを消さずに置いておくことはできます」
レインは黒板から目を離せなかった。
グラハムなら、観測と判断を分けろと言うだろう。
それは正しい。
けれどノートンは、最初に否定しなかった。
そのことが、思ったより胸に残った。
「でも、情報として扱うなら、汚染との区別が必要です」
セシリアが手を挙げていた。
「読み取れる可能性と、実際に読めることは違います」
「その通りです。だから、今日は読みません。分類します。読めないものを無理に読むのは危険です」
セシリアの指から少し力が抜けた。
「ただ、読めないから意味がないと決めるのも、同じくらい危うい」
フィンが片手を上げる。
「教授、それはつまり、読めない手紙を燃やすなって話ですか」
何人かが笑った。
ノートンも笑う。
「近いですね」
「じゃあ、差出人が罠を仕込んでないかも確認したいです」
「良い警戒です。古いものを大事にすることと、無防備に近づくことは違います」
「そこまで言ってくれるなら、少し安心しました」
「安心しすぎると、次の分類で間違えますよ」
「それは先に言ってください」
教室にもう一度笑いが起きた。
レインも少しだけ息を緩める。
グラハムの授業とは違う。あの硬さがない。危険を忘れさせるほどではないのに、近づいてもいいと思わせる声だった。
◇
授業が終わると、学生たちはいつもより明るい声で教室を出ていった。
「悪い先生には見えなかった」
廊下へ出たところで、レインは言った。
セシリアは鞄の留め具を閉じながら、少しだけ間を置いた。
「悪い人に見えないことと、安全なことは別よ」
「出た」
フィンが言う。
「何が」
「セシリアの安全確認」
「必要だから言っているの」
「分かってる」
フィンは教室を振り返った。
「あの先生、上手いな」
「上手い?」
「正面から押してこない。気づいたら、こっちから一歩出てる」
レインは答えなかった。
ノートンの言葉がまだ残っている。
読めないから意味がないと決める必要はない。
それは古い術式の話だった。けれどレインには、自分の中にあるものへ向けられた言葉のようにも聞こえていた。
「気に入った?」
フィンが横から聞く。
「……少し」
「正直でよろしい」
「フィン」
セシリアの声が低くなる。
「分かってる。茶化してるんじゃない」
フィンは両手を上げた。
「ただ、気に入った相手ほど距離を間違えやすいって話」
レインは教室の扉を見た。
ノートンはまだ中にいる。
あの人なら、分かってくれるかもしれない。
そう思った自分に、少し遅れて気づいた。
◇
学生たちが去った後の講義室には、石筆の粉の匂いが残っていた。
ノートンは黒板の端を消していた。教卓の上には、学生たちの分類表が重ねられている。
扉が開いた。
「授業は終わったようですね」
グラハムの声だった。
ノートンは振り返る。
「ええ。皆さん、よく見ていました」
グラハムは教卓へ近づき、一番上の分類表を見た。赤と黒の印の間に、判断不能と書かれた欄がいくつもある。
「判断不能が多い」
「悪いことではないでしょう」
「悪いとは言っていない」
グラハムは分類表を教卓へ戻した。
「分からないものを、分からないと書けるのは必要なことだ」
ノートンの笑みが、少しだけ薄くなった。
「では、問題はありませんね」
「ある」
短い返答だった。
「判断不能と書いた後で、そこに何を見たくなるかだ」
窓の外で、午後の光が白い校舎の壁を照らしている。
ノートンは黒板消しを置いた。
「学生たちは、自分が見たものを大人の分類に合わせて捨てることがあります。私は、それが惜しい」
「捨てる必要はない」
グラハムは否定しなかった。
「持ち帰ればいい。記録して、比較して、次の観測を待てばいい。だが、持ち帰る前に名前を与えるな」
「名前を与えたつもりはありません」
「言葉は名前になる」
ノートンは何も言わなかった。
グラハムは一枚の分類表へ視線を落とす。判断不能と書かれた欄の横に、細い筆跡で短い補足が添えられていた。
別の作業があった可能性。
「可能性は便利な言葉だ」
グラハムが言った。
「観測していないものを、近くにあるように見せる」
「けれど、可能性を閉じれば何も見つかりません」
「閉じろとは言っていない」
グラハムの声は低かった。
「開いたまま、決めつけるなと言っている」
ノートンは黒板へ視線を戻した。消し残された白い線が、光の中で薄く浮いている。
「彼らは、こちらが思うより多くのものを見ています」
「だからこそ、言葉を選べ」
「選んでいます」
「なら、与える順番も選べ」
グラハムは分類表を整え、教卓の端へ置いた。
「まだ、持たせるべきではない言葉がある」
ノートンはしばらく黙っていた。
「見たものをなかったことにする方が、残酷な時もあります」
「あるだろうな」
グラハムは否定しなかった。
「だが、見たものに早すぎる意味を与えるのも残酷だ」
ノートンは微笑んだまま、何も返さなかった。
黒板には、消し残された白い粉が薄く残っていた。




