第16話 学長のお茶会
放課後の教室には、授業の余韻がまだ残っていた。
レインは机の上に置いた封筒を見下ろしていた。中には昨日と同じ一行だけが入っている。
『体調が許す時に、茶を飲みに来なさい』
署名は、セドリック・オルドレン。呼び出しとは書かれていない。だが、学長からの招待をただの茶飲み話だと思えるほど、レインは楽観的ではなかった。
「まだ見てるのか」
向かいの席でフィンが言った。
「見てたら、別の意味が浮かぶかと思って」
「浮かんだか?」
「浮かばない」
「じゃあ、何を聞かれても余計なことを言わない練習だな」
「学長はどこまで知っているんだろう」
セシリアがノートを閉じた。小さな音だったが、フィンの軽口はそこで止まる。
「レイン」
「聞かれたことには正確に答える。推測を混ぜない。知らないことを、知っているように言わない」
先に言うと、セシリアは一度まばたきした。
「それから、聞かれていないことを慌てて付け足さないこと」
「そこが一番難しいな」
「難しくても、やって」
声は落ち着いていた。けれど、ノートの端を押さえる指には少し力が入っている。
『情報開示の危険性を算出しますか』
アークの声が内側に落ちた。
今はいい。
『了解しました』
レインが目を伏せたのを見て、フィンが頬杖をつく。
「今、何か言われたな」
「分かるのか」
「顔が、面倒な授業を受けてる時と同じだった」
「だいたい合ってる」
フィンは笑ったが、すぐに口を閉じた。セシリアの視線がレインの右肩に向いていたからだ。
「階段は避けて。強い魔力は使わないで。帰りに医務棟へ寄ること」
「学長室に行くだけだぞ」
「行くだけで疲れないとは限らないわ」
反論はできなかった。右肩の固定具は、痛みよりも重さでそこにあることを主張している。歩ける。座れる。だが、治ったわけではない。
「分かった。無理はしない」
「ならいい」
フィンが軽く手を振った。
「茶の味くらいは覚えて帰ってこいよ」
「努力する」
レインは封筒を内ポケットへ入れ、教室を出た。
◇
廊下には、放課後の音が薄く残っていた。
鞄の金具が鳴る音。術式手袋を外す音。課題の範囲を確認する声。いつもと同じ学院の音なのに、一人で学長室へ向かうと、少し遠く聞こえる。
『心拍数の上昇を確認』
分かってる。
『歩行速度は通常範囲内です』
それは報告しなくていい。
『了解しました』
アークはそれきり黙った。
学長はどこまで知っているのか。医務棟の診断。第十七遺跡の地下管理室。救助時に開いていた経路。レインの身体の中で、損傷した魔力経路を補うように働いているもの。
アークの名前まで知っているのだろうか。
考えても答えは出ない。レインは階段を避け、回廊を回った。窓の外では夕方の光が湖の上に伸びている。
学長室の扉の前で、左手を上げた。
「入りなさい」
低く、穏やかな声だった。
扉を開けると、紙と茶葉の匂いがした。本と記録束があちこちに積まれているのに、歩く場所だけはきれいに空いている。
学長は窓際で茶器を並べていた。袖口には、いつものようにインクの跡がある。
「来たね。そこに座りなさい。右肩に響きにくい椅子は、そちらだ」
指された椅子は、なぜか右の肘掛けだけがなかった。
レインが足を止めると、学長は片目をつむった。
「なぜかこの部屋を訪れる者は、よく右手を骨折しておるのでな」
「……よく、ですか」
「うむ。わしは一度も折ったことがないのだがね。どうやら学生がこの部屋に入るには右腕を折る必要があるらしい」
冗談なのか本当なのか、一瞬分からなかった。
座ってみると、確かに右肩を動かさずに済んだ。
「ありがとうございます」
「礼を言うほどのことではない。椅子くらいは、わしにも用意できる」
学長は古びたポットに湯を注いだ。高価そうな茶器ではない。よく使われている道具だった。
「高い茶ではないよ。高い茶は、学生に出すと緊張で味を忘れられる」
「安くても忘れるかもしれません」
「では、温度だけ覚えて帰りなさい」
湯気が立つ。
『攻撃的術式の起動反応なし』
『未知の術式痕を確認』
お湯を沸かす術式だ。静かにしていてくれ。
『了解しました』
学長はレインの前に杯を置いた。
「体調はどうかね」
「昨日よりは動けます。実技と強い魔力使用と遺跡調査は禁止されています」
「うむ。よく覚えている」
「忘れると、セシリアに怒られます」
「彼女は正しい」
あっさり言われて、少し返答に困った。
「授業は」
「座学は問題ありません。実技は見学です」
「見学、かね」
学長は微かに笑った。
レインは茶の表面を見た。
「……基礎乾燥術式の授業で、術式手袋を使いました」
「報告は受けている。魔力は流していないそうだね」
「はい。構築の形を確かめただけです」
「実技禁止は、魔力を流すことだけを指す言葉ではない。術式を構築するだけでも、今の君には負担になる」
レインは言葉に詰まった。学長の声は穏やかだった。だからこそ、言い逃れの余地がない。
「ただ、隠さず答えたことはよい。次に判断に迷ったら、まず医務棟へ聞きなさい」
「はい」
そこで、レインはようやく疑問に引っかかった。
基礎乾燥術式の授業は、昨日の午後のことだ。医務棟の診察記録ならまだ分かる。だが、術式手袋を使ったことまで、なぜ学長が知っているのか。
学長はレインの顔を見て、少しだけ視線を窓へ向けた。
「ミル」
呼ばれた直後、窓の外で白い影が動いた。
細い嘴を持つ、小さな白い鳥だった。羽の先だけが淡い銀色で、窓枠に降りると、首をかしげてレインを見た。
「白羽鳥のミルだ。昨日、君に招待状を届けたのもこの子だよ」
ミルは胸を張るように小さく鳴いた。
「学院内で起きた細かな出来事を、時々わしに教えてくれる。もちろん、試験の答えや恋文の中身までは報告せん。そこまで働かせると、鳥にも嫌われる」
「昨日の授業も、ですか」
「危険な学生が危険なことをした、という報告ではない。怪我人が判断に迷うことをした、という報告だ」
責める言い方ではなかった。
だから余計に、レインは背筋を伸ばした。
「鍋は無事しまえたかね」
レインは危うく茶をこぼしかけた。
「……それもミルが?」
「いや、医務棟から報告があった。学生が持ち込んだ覚えのない鍋を、退院時に持って退室した、とね」
「まだ戻っていません。フィンが何度か試しましたが」
「そうか。黒鞄にも事情があるのだろう」
「その事情を聞ける日が来ても、あまり嬉しくはなさそうです」
「今すぐ危険があるとは思っておらん。だが、所在だけは分かるようにしておきなさい」
「分かりました」
それで鍋の話は終わった。
雑談のようでいて、ただの雑談ではない。学長は必要なものを一つずつ机の上に並べているようだった。
「第六班から礼が届いている」
「礼、ですか」
「君たち第七班が遺跡で時間を稼いだこと。救助経路の確保に繋がったこと。その礼だ」
「俺たちは、そんな大したことはしていません」
「した者ほど、そう言うことがある」
杯が机に置かれた。小さな音だった。けれど、部屋の空気はそこで変わった。
「だが、今日は褒めるためだけに呼んだわけではない」
レインも杯を置いた。
「第十七遺跡の事故報告には、説明しきれない部分が多い。崩落。隔離術式。地下管理室。救助時に開いていた経路。医務棟で確認された魔力経路の損傷。そして、その損傷を補うように働いていた反応」
指先が冷えた。
『情報開示の危険性を算出しますか』
いらない。
『了解しました』
「医務棟の診断記録は、通常の保管場所から移した。最高機密扱いにしてある」
「どうして、ですか」
「君を守るためでもあり、学院を守るためでもある。外へ出れば、君は怪我人ではなく、調査対象として扱われるかもしれない」
調査対象。
その言葉は、茶の温度よりはっきり残った。
「わしは学生を標本棚に並べる趣味はない。しかし、見なかったことにする趣味もない」
学長の声は穏やかなままだった。
「君の内側で働いているものは、単なる治癒術式ではない。攻撃的でもなかった。だが、判断していた。損傷した経路を避け、必要な処理を選ぶように見えた」
アークは何も言わなかった。
訂正しない。少なくとも今の言葉を、誤りとして処理してはいない。
「ところで、君の中にいるものは、何と名乗ったのかね」
息が止まった。
問いは静かだった。詰問ではない。脅しでもない。ただ、逃げ道だけを正確に塞いでいた。
『回答保留は可能です』
『沈黙も情報として扱われます』
レインは膝の上で左手を握り直した。フィンがいれば、何か言ったかもしれない。セシリアがいれば、答える前に視線で止めたかもしれない。
だが、ここにいるのはレインだけだ。
「アーク、です」
声は思ったより小さかった。
「アーク」
学長はその名を繰り返した。
「最初は、ARKと表示されていました。Archive Reconstruction Kernel。そこから、俺が」
「そうか」
学長は責めなかった。ただ、その言葉を置く場所を確かめるようにうなずいた。
「今も話しているのだね」
「はい。ただ、俺がはっきり向けた言葉だけです。考えていることを全部読んでいるわけじゃありません」
『肯定』
「身体を勝手に動かすことは」
「しないように言ってあります。何かする前に伝えるようにも」
「君の指示かね」
「はい」
「よい指示だ」
その一言で、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「アークは、君を助けたのかね」
助けた。
それは間違いない。地下管理室で、レインは助けを求めた。何でもいいから助けてくれと願った。アークはそれに応じた。
けれど、その結果として今も身体の中にいる。受け入れたわけではない。拒めるほど遠くもない。
「助けられました。でも、全部を分かっているわけじゃありません。俺も、アークも」
『参照記録が欠損しています』
「欠けている記録が多いそうです。何でも知っているわけではありません」
「うむ」
学長は長く問い詰めなかった。
「レイン君。わしは今すぐ、それを排除しようとは思っていない」
息が少し楽になった。
けれど、安心しきる前に次の言葉が来る。
「だが、放置もしない。君の身体に関わる。学院の安全にも関わる。何より、君はまだ学生だ」
学長は指を一本立てた。
「体調の異変は隠さないこと。痛み、眠気、視界の異常、声の聞こえ方。どれもだ」
「はい」
「アークが君の身体へ何かを行う場合、君が認識していること。君の承認なしに動くものを、わしは学生の内側へ置いてはおけない」
「それは、俺も同じです」
『条件を記録しました』
「強い魔力使用と遺跡調査の禁止は継続する。好奇心はよい。だが、怪我人の好奇心は、医務棟の仕事を増やす」
「……はい」
学長は茶を注ぎ足した。
「フィン・ブラックウッド君とセシリア・アッシュフォード君は、知っているのだね」
レインは喉の奥が詰まるのを感じた。
「はい。俺が話しました」
「責めてはいない。命を預け合った相手に、何も言わずにいる方が難しいこともある。ただし、巻き込むなら、守る責任も生じる。君だけの秘密ではなくなるからね」
「分かっています」
本当に分かっているのかは、自信がなかった。けれど、分かろうとしなければならないことだけは分かった。
「アーク」
学長がその名を呼んだ。
レインではなく、その中にいるものに語りかける口ぶりだった。
「君が聞いているかどうか、わしには分からん。だが、レイン君を生かしたことには礼を言う」
『当該行動は救命要求への応答です』
「礼を言われる理由が分からないそうです」
「ならば、それでよい。礼とは、分かった時だけ受け取るものではない」
学長は静かに続けた。
「それから、学院では、無断で学生の身体を動かすことは推奨されておらん。覚えておきなさい」
『規則として記録しました』
「規則として記録したそうです」
「うむ。まずはそこからでよい」
茶はぬるくなっていた。フィンに言われた通り、味を覚えて帰るのは難しそうだった。
「今日はここまでにしよう。茶を飲みに来た学生を尋問で倒れさせたとなれば、医務棟に叱られる」
「医務棟だけで済みますか」
「セシリア君にも叱られるだろうな」
レインは少し笑って、すぐに息を抑えた。肋骨のあたりに響く。
「失礼します」
「レイン君」
扉へ向かいかけたところで、呼び止められた。
「君の中にいるものが何であれ、学院にいる限り、君は学生だ。それを忘れないように」
レインは振り返った。ミルが窓辺で首をかしげ、学長はもう記録束へ手を伸ばしていた。
「はい」
今度は迷わず答えた。
◇
学長室を出ると、廊下の空気が少し冷たかった。
扉の閉まる音を背中で聞きながら、レインは深く息を吸う。
『敵性を確定できません』
『監視精度は高いと推定されます』
つまり、気をつけろってことか。
『肯定』
レインは歩き出した。
秘密は軽くなっていない。むしろ、知る者が増えた分だけ、形を持った。
回廊を曲がると、見慣れた二人がいた。
フィンは壁にもたれ、セシリアはその隣で腕を組んでいた。怒っているような姿勢だったが、レインを見るとすぐに腕がほどけた。
「遅い」
「茶を飲んでた」
「本当に?」
「一応」
フィンが首を傾げる。
「で、茶はうまかったか?」
レインは少し考えた。香りは覚えている。温度も覚えている。けれど味は、核心を突かれた瞬間にどこかへ消えた。
「味は覚えてない」
「それは、相当だな」
セシリアが一歩近づいた。
「何を聞かれたの」
声は抑えられていた。廊下には他の学生もいる。ここで話すことではないと、彼女も分かっている。
「あとで話す」
フィンの表情から、軽さが少し引いた。セシリアは一度だけうなずく。
「全部?」
「聞かれたことは、正確に答えた」
「それは、私の質問の答えになっていないわ」
「分かってる。だから、あとで全部話す」
セシリアはそれ以上聞かなかった。代わりに、右肩へ視線を落とす。
「痛みは?」
「少し疲れただけ」
「医務棟へ」
「まだ倒れてない」
「倒れてからでは遅い」
フィンが肩をすくめた。
「じゃあ、医務棟経由で帰るか」
「行くだけだぞ」
「行くだけで疲れないとは限らないんだろ」
セシリアが何も言わずにフィンを見た。
「今のは正しい引用だったと思う」
レインは小さく笑った。今度は、肋骨に響かない程度に。
学長室で交わした言葉は、まだ胸の奥に残っている。
君の中にいるものは、何と名乗ったのかね。
アーク。
その名を口にしたことで、何かが終わったわけではない。むしろ、始まったのだと思う。
『歩行速度の低下を確認』
疲れてるだけだ。
『休息を推奨します』
珍しくまともだな。
『損傷回復に有効です』
フィンが横からのぞき込んだ。
「今、アークと話してたか?」
「休めって言われた」
「いいやつじゃないか」
『評価基準が不明です』
レインは、それを二人には伝えなかった。
夕方の光は、さっきより少し薄くなっていた。それでも、回廊の先は暗くない。
三人と一つは、ゆっくりと医務棟へ向かって歩き出した。




