第15話 最初の一行
退院の許可が出たのは、レインが目を覚ましてから三日後だった。
「授業への出席は許可します」
治療師は記録板をレインへ向けた。
「ただし、実技への参加は禁止。強い魔力を流すことも、遺跡に関する調査も禁止です。胸に痛みが出た場合は、すぐ医務棟へ戻ること」
「分かりました」
『発話内容と過去の行動傾向に不一致を確認』
レインは聞こえないふりをした。
「今、少し間があったわね」
「守れるか確認していただけです」
「余計に不安になったわ」
治療師は溜息をつき、退院許可証へ署名した。
「固定具は外さないこと。明朝、必ず診察を受けなさい」
扉の外で待っていたフィンが、終わるのを見計らったように顔を出した。
「終わったか?」
「まだ呼んでないわよ」
「扉が開いてたから」
「今、あなたが開けたのよ」
治療師の視線を受け、フィンは静かに扉を閉めた。
ただし、自分も室内に残った。
「外で待てという意味だったんだけど」
「もう出るところだから同じだろ」
「あなたも一度診てもらった方がよさそうね」
「どこを?」
「主に頭を」
フィンは首を傾げたまま、レインの荷物を黒鞄へ入れ始めた。
着替え。本。記録帳。
最後に、小さな鍋を押し込もうとして止まる。
「まだ戻らない」
「普通に持って帰れ」
フィンは鍋を見た。
「その発想はなかった」
「鞄を持ってから、物を運ぶ方法を忘れてないか?」
「便利な道具は、人間から不要な技術を奪うんだ」
『当該見解には合理性があります』
「アークがお前に賛成した」
「見る目があるな」
フィンが満足げにうなずく。
「だから不安なんだ」
◇
医務棟を出ると、午後の鐘が学院中へ響いていた。
石造りの回廊を学生たちが行き交い、窓の外では実技授業の光が時折空へ上がっている。
数日しか離れていない。それでも、何もかもが少し遠く感じられた。
すれ違う学生の何人かが振り返る。声をかけようとしてやめる者もいれば、小さく頭を下げる者もいた。
「人気者だな」
「見世物の間違いだろ」
「入場料を取れば、壊れた魔力計の弁償に回せる」
「まだ気にしてるのか」
「請求書は善意より遅れて来るんだ」
レインは鍋を抱えて歩くフィンを見た。
「その格好で言われても説得力がない」
教室へ入ると、話し声が一瞬だけ止まった。
「見世物じゃないぞ。見るなら一人一枚だ」
「何を取るつもりだ」
「案内料」
「あなたは何も案内していないでしょう」
セシリアがレインの席から鞄をどけた。
机の右側は空けられ、左手だけで記録を取れるよう筆記具が並んでいる。
久しぶりに受ける授業は、初級術式構築論だった。
教師は教卓へ、浅い皿と水に濡らした布を置いた。
「今日扱うのは、基礎乾燥術式です」
術式手袋を着けた指が空中を滑る。
中央には、水分を熱へ変換して外へ逃がす乾燥核。その周囲を、濡れた布だけに固定する対象環が囲む。処理環には温度を一定に保つ曲線が左右対称に巡り、四つの制御節点が流量を抑えていた。
「対象、処理、上限温度を確認し、最後に外周を閉じます」
残っていた切れ目がつながる。
完成した術式へ魔力が流れ、全体が淡い赤に光った。布から薄い湯気が立ち、数秒後には水気が消える。
「対象が布以外なら、対象記号を書き換える必要があります。生体や薬品へ、この標準術式をそのまま使ってはいけません」
『対象および処理を実行前に固定しています』
そういうものだ。
『対象の状態変化に応じた再構築は行われません』
上限まで乾いたら止まる。途中で方法を変える必要はない。
『安全な停止を優先する設計として記録します』
レインは乾燥核を見つめた。
核を構成する線の意味は、入学前から知っている。中央の変換記号も、その下へ接続された放出記号も、現代魔法の教本に載っている標準形だ。
遺跡で見た古代術式にも、似た線はあった。
だが、似ているのは断片だけだった。
知られている古代記号は少なくない。発光、接続、遮断、保存。長い研究によって、単独の記号や短い並びなら意味が推定されている。
それでも、記号同士を結ぶ線の規則が分からない。
なぜそこに空白があるのか。途中で切れた線がどこへ続くのか。静止した古代術式を見ても、研究者に分かるのは散らばった単語だけだった。
以前のレインも同じだった。
アークと接続した今は、線が次にどこへ向かおうとしているのか、変化の意図だけが薄く伝わってくる。
古代術式を習得したわけではない。
動いている術式の内側を、アークの隣から覗いているようなものだった。
「レイン」
セシリアの声で顔を上げる。
「聞いている?」
「聞いてる」
「今、教師ではなく術式だけを見ていたでしょう」
「術式構築論なんだから、間違ってない」
「そういう時のあなたは、大抵ほかのことを考えているわ」
レインは否定しなかった。
◇
授業中、レインは実技を免除されていた。
終了の鐘が鳴っても、指先には術式を描きたい感覚が残っていた。数日しか休んでいないのに、見ているだけの時間がひどく長く思えた。
教授と学生たちが教室を出た後、レインは術式手袋を左手にはめた。
「何をしているの?」
セシリアがすぐに気付く。
「描くだけだ。発動はしない」
「それを治療師の前で言える?」
「発動しなければ実技じゃない」
「その解釈を確かめるために医務室へ戻る?」
「戻るつもりはない」
フィンが反対側から覗き込む。
「なら、再入院しない程度にしておけ」
「止める側に回るのか」
「見舞いの品をもう一度考えるのは面倒だ」
「鍋でいいだろ」
「二つ目はいらない」
レインは手袋の補助を借り、教本どおりに指を動かした。
乾燥核。その周囲に布を指定する対象環。左右対称の処理線。等間隔の四つの節点。
最後の外周だけは閉じない。
これで魔法は発動しない。
手袋の補正が線の揺れを整えていく。久しぶりに自分の手で術式が形になる感覚へ、レインは小さく息を吐いた。
「同じ目的を、古代式ではどう書く?」
『参照可能な術式構造を検索します』
『該当記録の欠損率、六十四パーセント』
『完全な構造は提示できません』
「残っているところだけでいい」
『視覚情報として提示します』
レインの視界に青白い線が重なった。
机にも空中にも、実際の魔力反応はない。アークが接続経路を通して、残存する構造情報だけを視覚へ送り込んでいる。
最初に見えたのは、現代式と共通する三本の原型線だった。
そこまではレインにも分かる。
だが、その先が続かない。
原型線の周囲には位置の定まらない三つの節点が浮かび、二本の線が大きな空白の手前で途切れていた。外周にも複数の切れ目があるが、その先へ伸びるはずの線は存在しない。
「何か見えてるの?」
セシリアが尋ねる。
「俺にだけ。アークが記録に残っている術式構造を見せてる」
「読める?」
「共通する記号は分かる。でも、全体は無理だ」
レインは片目を閉じ、動く節点を追った。
「アークが意味の候補を重ねてくれてる。それでも、この空白に何が入るのかは分からない」
「つまり、あなた自身が古代術式を習得したわけではないのね」
「通訳というより、欠けた文章を一緒に見てる感じだ」
『欠損箇所の処理情報を保持していません』
セシリアは記録用紙を取り出した。
「見える順に説明して」
「その前に描けるか試していいか?」
「駄目と言っても試す顔ね」
レインは青白い像をなぞるように指を重ねた。
手袋の補正光が原型線までは追従する。
しかし、そこから枝分かれする細線へ入った瞬間、光が乱れた。位置を変えた節点を固定しようとして、手袋が古い位置へ線を引き戻してしまう。
レインはすぐに指を止めた。
「無理だ。細すぎる。それに、節点が動くたび手袋が元へ戻そうとする」
『現行補助具は可変術式線に対応していません』
「現代の手袋では、動く線を誤差として補正するみたいだ」
「なら、これ以上は試さないで」
セシリアの声が低くなる。
「途中までしか書けない術式ほど危険なものはないわ」
「分かってる」
レインは手を下ろし、見えた構造を一つずつ説明した。
セシリアが記号と線を紙へ写す。フィンは黙って、現代式の対象環と教卓の布の位置関係を書き加えた。
「この線は?」
セシリアが、空白の手前で途切れた線を指す。
「単独なら排出の記号に似てる。でも、この並びでは分からない」
『該当経路の参照記録が欠損しています』
「目的も分からないの?」
「水分に関係するのは確かだと思う。でも、乾かすためなのか、別の状態へ変えるのかまでは読めない」
視界の中で、途切れた線が一度だけ向きを変えた。
「今、動いた」
「どう変わったの?」
「空白の右側へつながろうとした。でも、途中で止まった」
セシリアは紙へ新しい線を書き足した。
「同じ記号でも、接続先が変われば役割も変わるのかもしれない」
「まだ断定はできない」
「ええ。だから記録するのよ」
共通する記号はある。
だが、停止した図だけを写しても意味はつながらない。節点は位置を変え、空白には実行時まで何も書かれていない。
現代の研究者が読めなかった理由を、レインは初めて理解した。
彼らが見ていたのは文章ではない。
処理の途中で止まった、単語と余白の集まりだった。
「読めたわけじゃないな」
レインが言う。
「そうね」
セシリアは二枚の図を並べた。
「でも、今までの読み方では足りないことは分かった」
「形じゃなく、変化も見ないといけない。今まで古代術式が解読できなかったわけだ。」
「これが最初の一行ってことか」
フィンが言った。
「まだ一文字かもしれないわ」
「厳しいな」
「研究はそのくらいでちょうどいいの」
◇
「アークに現代魔法を教えた方がいい」
古代魔法について考察を交わす中で、セシリアが言った。
「古代式を解読するためじゃない。あなたの現代術式へ、勝手に介入させないためよ」
納得のいく理由だ。現にレインは現代術式を描く最中、アークが口出ししようとしていたのがわかった。
「何から教える?」
「構築途中と損傷の区別から」
セシリアは、レインが描いた現代式の開いた外周を指した。
「これは何に見える?」
『外周経路の欠損』
「違うわ。まだ描いていないだけ」
『不足経路の補完を提案します』
「しないで」
セシリアは即座に言った。
「現代式では、外周が閉じるまで構築は完了していない。開いているからといって、損傷とは限らないわ」
『構築途中と損傷の識別方法を要求します』
「まず、術者の手袋から構築信号が続いているか確認する。続いているなら、術者が描き終えるまで待つ」
『信号が停止した場合は?』
「術式全体を検査する。対象環や処理環まで途中なら未完成。完成後の術式に意図しない断裂があれば損傷よ」
『識別できない場合は?』
「何もしない。術者へ確認する」
『目的の達成が遅延します』
「安全を確認できないなら、遅れていいの」
セシリアは四つの制御節点を順に指した。
「現代式では、目的を達成することより、制限を越えないことが優先される。これは温度の上限。これは対象外への熱移動を止める節点。これは異常時の遮断」
『制限により目的を達成できない場合は?』
「停止する」
『代替処理を検索しませんか』
「その処理が最初から記述されていなければ、しない」
『不足処理を補完しない』
「そう。分からないなら、勝手に完成させない」
短い沈黙があった。
『処理を実行しないことを、安全処理として記録します』
セシリアが小さく頷いた。
「まずはそれでいいわ」
フィンが紙の端へ、術者と布の位置を書き込んだ。
「次は対象だな」
『対象環に布が指定されています』
「布なら何でもいいわけじゃない。どの布かを決める」
フィンはレインの机から教卓まで線を引く。
「術者から前方六メートル。床から一メートル。指定範囲はこのくらい。現代式では、発動前に対象の位置まで固定する」
『対象が指定範囲から移動した場合は?』
「追跡処理がなければ外れる」
『新しい位置を取得します』
「しない」
「しないわ」
レインとセシリアの声が重なった。
フィンだけが一拍遅れて頷く。
「別の場所を勝手に探したら、違う布へ作用するかもしれない。対象を失ったら止まるんだ」
『目的を達成できません』
「それでいい。対象を間違えるよりはな」
『安全な失敗として記録します』
「そういう言い方になるのか」
「意味は合ってるわ」
セシリアは新しい紙へ、教えた内容を書き出した。
一、構築中の術式を補完しない。
二、不明な場合は停止して術者へ確認する。
三、制限記号を目的より優先する。
四、指定対象を失っても、別の対象を選び直さない。
「今日はここまで」
「まるで教師だな」
レインが言う。
「あなたの術式へ介入されたくないだけよ」
「次は現代術式の文法まで教えよう」
フィンが身を乗り出す。
「フィンまで教師みたいだ」
「俺は鞄に物の名前を教えるので慣れてる」
「それで鍋が出てきたの?」
「教育には失敗もある」
「失敗したまま私たちに渡さないで」
レインはアークへ、四つの規則をもう一度確認した。
すべて同じ言葉で返ってくる。
『記録しました』
「覚えたらしい」
「お前より素直だな」
フィンが言った。
「俺も覚えてる」
「お前は今、禁止されてるのに術式を描いた」
「描くだけなら実技じゃない」
「その理屈で医務室へ戻されたら?」
「次は見つからない場所で描く」
「反省の方向がおかしいわ」
教室の窓を、硬い音が二度叩いた。
白い鳥が窓枠に止まっている。脚には、学院章の入った小さな封筒が結ばれていた。
セシリアが窓を開けると、鳥は机へ降り、レインの前に封筒を置いた。
宛名はレイン。
差出人は学長室。
「何をした?」
フィンが尋ねる。
「復帰初日だぞ」
「初日だから聞いてる」
レインは片手で封を切った。
中には、一行だけ記されていた。
『体調が許す時に、茶を飲みに来なさい』
署名は、セドリック・オルドレン。
「呼び出しというより、招待ね」
セシリアが言った。
「学長からの招待ほど、断りづらいものはない」
フィンは医務棟から持ち帰った鍋を持ち上げた。
「手土産にするか?」
「持っていかない」




