第14話 三人と一つ
白い天井が見えた。
薬品の匂い。窓から差し込む朝の光。胸元まで掛けられた毛布には、王立魔法学院の紋章が縫い込まれている。
地下ではない。
学院の医務室か。
『位置情報を更新』
『王立魔法学院医務室』
レインの身体が強張った。
今の声は、自分の思考に答えた。
耳から聞こえたのではない。それなのに、言葉の意味だけが頭の内側へ直接届いている。
レインは誰もいない病室を見回した。
暗い管理室。黒い台座。左腕を上ってきた青白い光。
途切れかけた意識の中で聞いた名前が、ようやく記憶へ戻ってくる。
「アーク……?」
『個体名称への呼びかけを確認』
『応答します』
胸の奥で、心臓とは別の何かが脈打った。
レインは毛布の上から胸元を押さえた。
「本当に、いるのか」
『質問の対象が当機である場合、肯定』
「俺の中に?」
『当機の演算経路は、主接続者の魔力経路へ接続されています』
地下で何が起きたのか、すべてを覚えているわけではない。
外へ知らせてくれと頼んだ。助けが来るまで持たせられないかと尋ねた。最後に、何でもいいから助けてくれと言った。
その後に残っているのは、遠ざかる声と、身体の奥へ入り込んでくる光の感触だけだった。
「俺が意識を失った後、何をした?」
『損傷した魔力経路を、当機の演算経路によって代替しました』
『生命維持を目的とした緊急保全接続です』
レインは左手を寝台へつき、身体を起こそうとした。
右肩に鋭い痛みが走る。脇腹まで引きつり、途中で動きを止めた。
『起立を推奨しません』
「もう少し早く言ってくれ」
『行動が推奨に先行しました』
「次からは先に止めてくれ」
『次回の負傷を想定します』
「それはしなくていい」
右肩は厚い包帯と固定具で固められていた。額にも包帯が巻かれ、息を深く吸うと肋骨の辺りが痛んだ。
それでも、指先には感覚がある。
右手へごくわずかな魔力を流すと、胸の奥で青白い光が脈打った。
魔力は途中で途切れず、右腕へ届く。ただし、自分の魔力経路を通っている感覚とは違った。誰かが架けた細い橋の上を、慎重に渡っているようだった。
「外せるのか?」
『損傷経路の完全修復後、解除可能です』
「修復は?」
『現在利用可能な設備では不可能です』
自分の身体の中に、自分ではないものがいる。
言葉にすると、急に現実味を帯びた。
「お前は、俺の考えていることも分かるのか?」
『当機へ向けられた言語情報のみ取得できます』
「身体を勝手に動かすことは?」
『運動機能を制御する経路は構築していません』
「今後も作るな。何かする時は、先に伝えろ」
『要求への準拠を開始します』
レインは胸元を押さえた。
アークを受け入れたわけではない。
追い出す方法がなく、追い出せば命に関わる。ならば今は、何ができるのかを確かめながら、同じ身体に置いておくしかなかった。
それは信頼より、停戦に近い。
青白い脈動は、変わらず鼓動の少し後を追っていた。
扉が開き、学院の治療師が入ってきた。
「目を覚ましたばかりの患者は、どうして揃って起き上がろうとするのかしら」
レインは寝台へ戻され、瞳と脈を確認された。
「午後までは安静。食事と熱に問題がなければ、面会を許可します」
「誰か来ているんですか?」
「夜明け前から二人ほど。廊下から追い返す方が大変だったわ」
誰のことかは、聞くまでもなかった。
◇
面会が許可されたのは、昼を少し過ぎてからだった。
扉が開く。
入ってきたフィンとセシリアは、敷居を越えたところで同時に足を止めた。
二人とも、レインが起きていることを確かめるように、しばらく何も言わなかった。
「何だよ」
フィンが長く息を吐いた。
「思ったより元気そうだな」
「思ったよりって、どんな状態を想像してたんだ?」
「こっちが入ったら医師に追い出されるくらい」
「それは俺の状態じゃなくて、お前の態度の問題だろ」
「どっちにしても追い出されるなら同じだ」
フィンはいつもの調子で肩をすくめた。
セシリアは何も言わず、ベッドのそばまで来た。
包帯の巻かれた額。固定された右肩。毛布の上に出ている左手。
一つずつ確かめ、最後にレインの左手を握った。
「目が覚めたなら、すぐ知らせなさい」
「今起きたところだ」
「それでも」
握った手に、少しだけ力が入った。
「もう勝手にいなくならないで」
「勝手に落ちたわけじゃない」
「分かってるわ。分かってるけど、言わせて」
いつもなら何か挟むはずのフィンも、今回は黙っていた。
「心配かけた」
「謝れとは言ってないわ」
「じゃあ、ありがとう。二人がいなかったら、もっと前に死んでた」
フィンは黒鞄から、傷一つない縄を取り出した。
「これ、まだ鞄へ戻らないんだ」
「どうして?」
「たぶん、まだお前につながってるつもりなんだろ」
「鞄が?」
「俺も似たようなものだった」
フィンは縄を鞄の脇へ置いた。
「でも、最後は助けられなかった」
「助けられなかったじゃなくて、助けようとしてくれたで終わりにしたい」
「珍しくいいこと言うな」
「珍しくは余計だ」
「じゃあ今後も同じ水準を維持してくれ」
「フィン」
セシリアが睨む。
「空気が重くなったから戻したんだよ」
「自分で言ったら台無しよ」
それでも、セシリアの表情は少しだけ緩んだ。
◇
フィンは黒鞄をベッド脇へ置き、レインの着替えや授業の配布物を取り出していった。
食堂のパン。果物。寮に置いてあった本。レインが使っていた枕。
最後に、小さな鍋が出てきた。
「最後のは何だ?」
「鍋だ」
「見れば分かる」
「お前が入院中に必要そうな物を考えて手を入れたら出てきた」
「病室で料理はできないぞ」
「俺もそう思う」
「なら、しまいなさい」
セシリアが言った。
フィンは鍋を黒鞄へ押し込もうとした。
鍋は入口で引っかかり、それ以上入らなかった。
「戻らない」
「鞄にも拒否されてるじゃないか」
「どうやら今は、お前の鍋らしい」
「いらない」
結局、鍋は水差しの隣へ置かれた。
「実習は?」
「正式に中止。参加した学生は三日間休講だ」
セシリアが記録帳をレインの膝へ置いた。
「休講後の予定と配布物をまとめておいたわ」
「俺も手伝った」
「日付を書いただけでしょう」
「日付がなかったら共同作業にならない」
「それが目的だったのか」
レインが言うと、フィンは当然のように頷いた。
パンと医務室の薄いスープで昼食が始まった。
セシリアは果物を食べさせる前に、わざわざ治療師へ許可を取りに行った。
地下では、自分の呼吸と心臓の音しか聞こえなかった。
今は、フィンとセシリアの声が途切れない。
何の役にも立たない、まとまりのない会話だった。
それでもレインは、もう少し聞いていたかった。
『当該会話の目的を確認できません』
目的なんてない。
『目的のない情報交換を確認』
それが普通なんだ。
『通常行動として記録します』
レインは思わず笑った。
「何がおかしい?」
「何でもない」
「一人で笑うと、医務室から出してもらえなくなるぞ」
「お前にだけは言われたくない」
◇
「そういえば、リリアの魔力計は?」
「一つはお前と一緒に戻った。残り二つは遺跡の中だ」
「リリアには?」
「遺跡が持っていった、と」
「怒られなかった?」
「計器より学生を持っていかれなくてよかった、だとさ」
フィンはレインを見る。
「一人持っていかれたけど、返ってきたからぎりぎりだな」
「何がぎりぎりなんだ」
「弁償を免れる可能性」
「そこを心配していたの?」
セシリアが呆れる。
「学生の無事が確認できたら、次は生活費だろ」
「順番だけは正しいのが腹立たしいわね」
◇
面会時間の終わりを告げる鐘が鳴った。
フィンがパンの包みをまとめる。縄はやはり黒鞄へ戻らず、鍋と並んで床へ残った。
「じゃあ、明日も来る」
「授業は休講なんだろ。休めばいいじゃないか」
「病人に心配されるほど疲れてない」
セシリアも立ち上がった。
「明日は医師の許可を取ってから来るわ。誰かと違って」
「今日は結果的に許可が出てた」
「許可は結果ではなく、先に取るものよ」
二人が扉へ向かう。
「待ってくれ」
フィンが黒鞄を肩から下ろした。
セシリアも椅子へ座り直す。
二人とも、理由を急かさなかった。
レインは胸元へ左手を置いた。
二人は何時間も閉じた円の外で待ち続け、自分を連れ戻してくれた。このことを一人で抱える方が、今は不自然に思えた。
『心拍数の上昇を確認』
お前のことを話そうとしてる。
『情報開示の危険性を算出しますか』
いや。それは自分で決める。
「二人に話しておきたいことがある」
「地下で、俺は管理用らしい端末を見つけた。そこへ救助を求めた」
「それが、今の魔力経路を作ったの?」
セシリアが尋ねる。
「作ったのは、端末の中にいたものだ」
「今もいるのか?」
「いる」
「どこに?」
レインは胸元に手を置いた。
「俺の中」
しばらく沈黙が続いた。
「追い出せるのか?」
「追い出したら、俺の魔力経路も止まるらしい」
「じゃあ、しばらく泊めとけ」
「そんな簡単な話じゃないわ」
セシリアはレインの胸元を見た。
「身体を支えているのは分かった。でも、それが何なのかも、何を目的にしているのかも分からないでしょう」
「簡単じゃないから、今すぐ追い出すなって言ってる」
フィンはレインへ向き直った。
「名前は?」
「アーク」
『呼称を確認』
「今、返事をした」
「俺たちには聞こえないのか?」
「今は俺の魔力経路を通して話してる」
『共同作業者との情報共有が可能です』
「二人にも聞かせられるらしい」
「どうやって?」
『古代術式による一時接続を構築します』
『主接続者との接触、および承認が必要です』
「俺に触れればいいって」
フィンはためらわず、レインの左手首へ手を伸ばした。
「こうか?」
「怪我人をもう少し丁寧に扱いなさい」
セシリアは反対側からレインの左手へ指先を重ねた。
「危険はないの?」
『共有する情報は言語情報に限定されます』
『共同作業者の魔力経路および思考領域への干渉は実行しません』
レインがそのまま伝える。
「言葉を伝えるだけで、二人の魔力経路や考えていることには触れないらしい」
「らしい、では困るわ。異常を感じたら、すぐに切って」
『要求を受理しました』
『共同作業者接続を申請』
『接続対象、二名』
『主接続者の承認を要求します』
「許可する」
レインの手の甲に青白い線が浮かび、細い円を描いた。
現代術式とは異なる、閉じ切らない外周。中に読めない記号が滑らかに刻まれていく。その三か所に切れ目が生まれ、一つはレインの胸元へ、残る二つはフィンとセシリアの指先へ伸びる。
『共同作業者接続を開始』
病室に音は響かなかった。
それでも、三人の思考へ同じ言葉が届いた。
『個体名称、アーク』
フィンが目を見開く。
「本当に聞こえた」
セシリアは指を離さず、慎重に尋ねた。
「あなたがレインを助けたの?」
『救命要求を受理し、緊急保全接続を実行しました』
「今の目的は?」
『主接続者の生命維持、および欠損記録の復元です』
「その復元がレインに危険を与える可能性は?」
『予測に必要な情報が不足しています』
セシリアの表情は緩まなかった。
「分からないことを、分かるとは言わないのね」
『肯定』
「あなたが何者かは、これから確かめるわ。でも、レインを助けてくれたことには礼を言う。ありがとう」
フィンもレインの手首をつかんだまま言った。
「フィンだ。俺からも礼を言う」
『個体識別名、フィンを登録』
「私はセシリア」
『個体識別名、セシリアを登録』
『両名を復元支援対象の協力者として記録します』
「今のところ、四人の秘密だな」
「三人と一つでしょう」
「名前を持ってるなら、一人でいいだろ」
フィンが手を離すと、アークの声は届かなくなった。
セシリアも慎重に指を離した。手の甲の円から二本の線が消え、やがて残った一本も皮膚の下へ沈む。
「接触している間だけなのね」
「そうみたいだ」
フィンはレインの胸元へ視線を向けた。
「よろしくな、アーク」
『要求内容を確認できません』
「何て?」
「何を求められたのか分からないって」
「別に何も求めてない。返事だけしてくれればいい」
レインがそのまま伝える。
短い沈黙の後、声が返った。
『了解しました』
三人の間に、一つだけ新しい秘密が増えた。




