第13話 連れ帰ったもの
隔離術式の明滅が変わったのは、崩落から三時間が過ぎた頃だった。
青白い膜の前で記録を続けていたセシリアが、石筆を止める。
「教授」
積み上げられた測量記録を確認していたグラハムが顔を上げた。
「間隔が変わっています」
隔離術式の外周には、一定の光を保つ記号が並んでいる。その中で、保全継続を示すと推測された記号だけが明滅していた。
先ほどまでの間隔は、ほぼ十二秒。
今は六秒ごとに光っている。
さらに、その隣に新しい線が現れていた。
細い線は外周に沿って伸び、円の東側で止まっている。
「記録開始時刻は」
「たった今です」
「変化前の記録と並べろ」
セシリアが二枚の記録板を床へ置く。
フィンも平面図から目を離し、縦穴へ近付いた。
「開こうとしてるのか?」
「分からないわ。でも、保全継続の表示とは違う」
救助班の調査員が簡易魔力計を新しい線へ近付けた。
針は東を指した。
縦穴の中心ではない。
石壁の向こう、平面図上では何もない方向だった。
「時計塔へ記録を送れ」
グラハムの指示を受け、女性調査員が通信術式を起動した。
返答を待つ間にも、新しい線は少しずつ伸びていく。
フィンは床の平面図へ視線を落とした。
東側。
崩落地点から見て、その方向には主通路が続いている。だが、その途中には実習前の平面図に存在しない分岐があった。
「あの道だ」
「何が?」
セシリアが尋ねる。
「退避中に現れた分岐。壁が沈んで、急に開いた場所だ」
フィンは現在地から東へ線を引いた。
「方角が同じだ。あの先につながろうとしてるんじゃないか?」
「距離は」
グラハムが尋ねる。
「ここからおよそ百八十メートル。通路が伸びる前の距離なら、百三十くらい」
「推測の根拠は方角だけか」
「歩数もある。戻る途中で増えた距離と、ここから分岐までの差が近い」
グラハムはフィンの歩測記録を確認した。
その時、通信術式に時計塔からの返答が浮かび上がる。
女性調査員が読み上げた。
「過去の記録に、類似する表示があります。保全対象の搬出、または区画間移送を示す可能性がある、と」
「確度は」
「低いそうです。記録例は一件だけ」
グラハムは即座に救助班へ向き直った。
「東側の分岐を確認する。先行二名、補強二名、医療担当一名」
「俺も行く」
フィンが言った。
「認めない」
「俺が一番正確に道を覚えてる。地図にない分岐だ。途中でまた距離が変わったら、記録だけじゃ分からない」
「私も同行します」
セシリアが簡易魔力計を持ち上げた。
「この計器で、隔離術式の変化を追えます」
グラハムは二人を見た。
眠気も疲労も隠せていない。それでも、視線だけは縦穴から逸れていなかった。
「同行は認める。ただし、救助班より前へ出るな。異常を確認したら即座に戻れ」
「分かった」
「私も従います」
セシリアが答えた。
「準備しろ。すぐに出る」
◇
東側主通路は、地鳴りが収まってからも以前の形へ戻っていなかった。
壁の番号札と部屋の並びは記録どおりだが、区画同士の間隔が長い。照明石の数も、行きに見た時より増えている。
救助班は補強結界を順に設置しながら進んだ。
フィンは曲がり角と歩数を記録し、セシリアは簡易魔力計の針を見続ける。
「強くなってる」
分岐へ近付くほど、針の揺れが大きくなった。
百七十三歩目。
平面図にない分岐が現れた。
先ほどは開いていたはずの入口を、継ぎ目のない石壁が塞いでいる。
壁の中央には、直径二メートルほどの円が刻まれていた。
外周は閉じている。
「これです」
セシリアが計器を近付ける。
針が壁へ真っ直ぐ向いた。
グラハムは救助班を左右へ下がらせた。
「接触するな。変化を待つ」
間もなく、円の内側に青白い光が灯った。
光は複雑な線を描きながら外周へ広がっていく。
閉じていた円の右側で、ほんのわずかに光が途切れた。
切れ目はゆっくり上下へ広がった。
石壁が動いたわけではない。
そこに壁があるという状態だけが薄くほどけ、奥へ続く暗い通路が現れる。
「経路固定」
救助班の二人が入口の外へ補強杭を設置した。
現代式の結界は古代術式へ触れない位置に留める。
「医療担当を中央へ。フィン、アッシュフォード、後方を維持しろ」
グラハムを先頭に、一行は通路へ入った。
足を踏み入れるたび、床の照明線が順に点灯する。
通過した後も光は消えなかった。
今は外部から人を受け入れる経路として維持されているらしい。
通路の先には、いくつかの閉じた扉があった。
どれも反応しない。
生きている経路は一本だけだった。
やがて、黒い板状の装置が並ぶ広い部屋へ出た。
「レイン!」
フィンが叫んだ。
部屋の中央。
黒い台座の傍らに、レインが倒れていた。
フィンが駆け出しかける。
「止まれ」
グラハムの声に、踏み出した足を止めた。
医療担当の調査員が先に近付き、レインの首元へ指を当てる。続いて胸と瞳を確認した。
沈黙は短かった。
「生きています」
フィンの肩から力が抜けた。
セシリアは口元を押さえ、俯いた。
「意識は」
声が震えた。
「ありません。ただ、呼吸と循環は安定しています」
医療担当が診断術式を展開する。
淡い光がレインの胸へ触れた瞬間、術式の線が乱れた。
「待ってください」
「何がある」
「魔力経路を読み取れません。いえ、経路はあります。でも、途中から構造が変わっている」
診断術式の上に、人間の身体を模した図が浮かぶ。
胸部から右腕へ伸びる経路の一部だけが、青白い線で置き換わっていた。
線は一定の間隔で明滅している。
まるでレインの心臓に合わせて脈打っているようだった。
「治癒術式は使うな」
グラハムが言った。
「未知の経路へ干渉する可能性がある。物理的な固定と止血だけ行え」
医療担当がレインの右肩へ固定具を当てる。
「担架へ移します。身体をひねらないよう支えてください」
セシリアは簡易魔力計を床へ置き、すぐにレインの左側へ膝をついた。
頬へ触れようと伸ばした手が、途中で止まる。
代わりに、傷ついていない左腕を両手で支えた。
「レイン、聞こえる?」
返事はない。
「もう大丈夫だから。私たちが来たから」
自分へ言い聞かせるような声だった。
フィンが反対側で、レインの右腕を慎重に支える。
「せえので持ち上げる。いいな」
「分かってる」
今度のセシリアの返事は、ひどく掠れていた。
医療担当の合図で、三人はレインの身体を担架へ移した。
その瞬間、レインの顔が痛みに耐えるようにわずかに歪んだ。
「レイン?」
セシリアが顔を寄せる。
瞼は開かない。
それでも彼女は、レインの左手を離さなかった。
救助班が担架を持ち上げる。
来た通路を戻り始めると、背後の照明が一つずつ消えていった。
最後の一人が入口を越えた直後、開いていた円の切れ目が閉じる。
暗い通路は石壁の向こうへ消えた。
もう一度触れても、壁は何も返さなかった。
◇
レインが学院の医務棟へ運び込まれたのは、日が暮れてからだった。
学院医師たちは、物理的な負傷の処置を進めながら、胸部に存在する未知の魔力経路を何度も調べた。
結果は同じだった。
それはレインの魔力を循環させている。
同時に、既知のどの術式とも一致しない。
夜半を過ぎた頃、医務室の扉が静かに開いた。
入ってきた老人を見て、担当医が立ち上がる。
白髪は背中へ届くほど長く、先端だけが黒い紐で束ねられていた。顎を覆う髭も整えられておらず、作業の邪魔にならないよう一本にまとめられている。
濃紺の長衣に装飾はなく、胸元へ学院章が留められているだけだった。袖口には、洗っても落ちなかったらしい古いインクの染みが残っている。
長身ではあったが、背はわずかに丸い。
半分ほど閉じられた目は、今にも眠ってしまいそうに見えた。
それでも、王立魔法学院の中で彼を前にして姿勢を正さない者はいなかった。
学長、セドリック・オルドレン。
「患者の状態は」
声は低く、穏やかだった。
決して大きくはない。それでも、医務室にいた全員が同時に彼へ注意を向けた。
「命に別状はありません。右肩と肋骨、頭部に負傷がありますが、処置できる範囲です。ただ……」
担当医は診断記録を差し出した。
「魔力経路の一部が、未知の術式に置き換わっています。取り除く方法は分かりません」
「取り除いた場合は」
「循環が維持できない可能性があります」
オルドレン学長は記録へ目を落とした。
眠そうな瞼が、ほんの少しだけ持ち上がる。
「第十七遺跡から搬送された時点で、この状態だったのだね」
「はい」
「遺跡内の端末や術式は回収できませんでした。救助経路は閉じ、再接続にも応じません」
グラハムが答えた。
「保全委員会には」
「崩落事故と未知の区画について、速報を送っています」
「彼の体内にある術式は?」
「まだ報告していません」
オルドレン学長は短く頷いた。
「この記録は最高機密へ移す。閲覧権限は担当医、ブラックウッド教授、学長室に限定しよう」
「保全委員会から照会があった場合は」
「崩落事故と未知の区画については伝えて構わん。だが、学生の身体に関する情報は別だ」
眠そうな瞼が、ほんの少しだけ持ち上がった。
「本人の意識が戻るまでは、わしが預かる」
声は穏やかなままだった。
それでも、担当医はすぐに記録板へ封印術式を追加した。
「今夜は私が残ります」
グラハムが言う。
「君も休みなさい。第十七遺跡で十分働いた」
「実習の責任者です」
「だからこそだ。疲れた責任者が一人残るより、正常な判断のできる医師が隣室にいる方がいい」
グラハムは答えなかった。
「心配するなとは言わん。だが、休むことまで責任放棄に含める必要はないよ」
しばらくして、グラハムは医務室を出ていった。
担当医も必要な器具を整えた後、隣室へ戻る。
静かになった部屋で、オルドレン学長はレインのベッド脇へ立った。
眠り続ける少年の呼吸は浅いが、規則正しい。
胸元へ青白い線が一瞬だけ浮かび、すぐに肌の下へ消えた。
学長はそれを見逃さなかった。
「君は、何を連れて帰ってきたのかな」
レインは答えない。
窓の外では、夜明け前の風が学院の木々を揺らしていた。




