第12話 方舟の起動、楽園の目覚め
『Archive Reconstruction Kernel、起動処理を完了』
台座から伸びた光が、レインの左腕を上がっていく。
『接触者の生命状態を解析』
「待て。何を」
問いが終わるより早く、胸元へ冷たいものが触れた。
光そのものに温度はない。それでも、皮膚の下へ細い線を差し込まれたような感覚が走る。
『右肩関節損傷。肋骨二箇所に亀裂。胸部打撲。頭部裂傷』
胸の奥で、心臓が不規則に脈打った。
『主要魔力経路、複数箇所で断裂』
『循環維持率、二十一パーセント』
数字の意味は分からなかった。
ただ、自分の身体が急速に冷えていることだけは分かる。
台座へ置いた左手の感覚も薄れ始めていた。
その間にも、三つの文字と、それが示す意味がレインの思考へ流れ込んでくる。
ARK。
「アーク……それが、お前の名前か」
『使用者による呼称指定を確認』
『個体名称「アーク」を登録しました』
「名前を、聞いただけだ……」
『生命反応の低下を確認』
訂正を求める余裕も与えられなかった。
名称の登録より、レインの状態を優先したらしい。
「アーク。外に……知らせてくれ」
『外部救助経路への接続を試行』
台座の外周が光った。
開いた切れ目から一本の線が伸び、天井へ向かう。
線は途中で向きを変えた。管理室の入口を抜けようとして、形を失う。
細かな光の粒だけが宙へ残り、すぐに消えた。
『接続失敗』
『隔離状態を確認』
「もう一度」
『再試行』
再び線が伸びる。
今度は先ほどより低い位置を通り、壁際の経路へ重なった。
それでも、同じ場所で消えた。
『接続失敗』
「なら、あの円を開けろ」
『当該操作権限を保持していません』
「お前は、この施設の装置じゃないのか」
『肯定』
『当機は、損傷した記録および術式の復元を支援する補助核です』
『施設制御権限は保有していません』
「なら、この施設のことは分かるのか」
『施設識別情報を参照』
返答が途切れた。
周囲の黒い装置が一つずつ淡く光り、すぐに沈黙する。
『参照記録が欠損しています』
「正規管理者は?」
『最終登録情報を取得できません』
「俺を閉じ込めた術式は」
『情報が不足しています』
レインは黒い台座へ目を落とした。
起動さえすれば、何かが分かると思っていた。
だが、目の前の機構もまた、この施設と同じように欠けている。
「何なら分かる」
『現在取得可能な情報を提示します』
胸元に集まっていた光が、脈を打つように明滅した。
『接触者の生命状態』
『損傷した魔力経路』
『利用可能な設備』
『いずれも継続して悪化しています』
役に立つ情報ではあった。
知りたい答えではなかった。
レインは台座へ身体を預けた。黒い天板へ落ちた汗が、青白い線をわずかに歪ませる。
「じゃあ、何ができる」
『損傷記録の解析』
『欠損情報の推定』
『修復手順の提示』
『保守担当者への復元支援』
「俺を、治せるのか」
返答までに、わずかな間があった。
『損傷魔力経路の復元を試行します』
レインの左腕を覆っていた光が、胸元へ集まった。
宙に、人間の身体を模した細い線が浮かぶ。
胸部から両腕、背骨へ伸びる経路。その一部が黒く欠け、周囲の線も弱く明滅していた。
青白い光が欠損部分へ伸びる。
最短の距離を結ぶような、真っ直ぐな一本だった。
両端へ触れる直前、線が震えた。
形を保てず、細かな粒となって崩れる。
『接続不成立』
光は消えなかった。
今度は欠けた場所を避け、脇腹側から背骨へ回り込もうとする。
線が一本増えた。
途中で二つに分かれ、別の節点へ触れる。
その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
「止めろ……!」
光が止まる。
『既存経路への負荷上昇を確認』
『代替経路を破棄します』
追加された線が、根元から順に消えていく。
レインは台座へ左手を押しつけたまま、荒く息を吐いた。
目の前で行われていることが治療なのか、術式の構築なのかも分からない。
ただ、アークが最初から完成した線を出しているのではないことだけは見えた。
失敗するたびに経路を変え、別の形を作ろうとしている。
けれど、どの線も最後までつながらなかった。
『復元失敗』
『必要設備が存在しません』
『参照情報が不足しています』
「ほかの、方法は」
『施設内救命設備を検索』
周囲の黒い装置が一斉に明滅する。
一つ。
二つ。
管理室の奥へ向かう順に光が走り、すぐにすべて消えた。
『応答なし』
『遠隔医療施設への接続を試行』
床に残る線へ青白い光が流れ込む。
管理室の外へ抜ける前に、また途切れた。
『接続失敗』
『通常救命措置、実行不能』
あまりに平坦な声だった。
だが、告げられている意味だけは明確だった。
ここに残された設備では助からない。
外からの救助も届かない。
胸の奥で心臓が大きく脈打った。
一拍遅れて、もう一度。
次の鼓動までが長い。
『循環維持率、十九パーセント』
レインは息を吸った。
胸の途中で空気が止まったように感じた。
「助けが来るまで……持たせられないのか」
『現在の条件では困難です』
即答だった。
視界の端から暗闇が広がる。
何をする機構なのかも分からない。
施設の記録も欠けている。
レインを治そうとして、損傷していない経路へ負荷をかけたばかりだ。
そんなものへ身体を任せるべきではない。
考えれば考えるほど、頼ってはいけない理由ばかり増えていく。
右腕には、フィンが投げた縄の感触が残っていた。
崩れ続ける石板を支えた、セシリアの術式も見た。
二人は、何が起きているのか分からないまま手を伸ばした。
安全だと確認してから助けようとしたわけではない。
助ける必要があったから、先に動いた。
今度は自分が選ぶ番だった。
「何でもいい……」
声が掠れた。
「助けてくれ」
『救命要求を確認』
管理室に残る光が、一度だけ弱くなった。
壁際の装置。
床を走る線。
天井へ向かう途中で途切れた接続経路。
それらが順番に明滅し、すぐに消える。
『通常救命措置、実行不能』
『外部経路、遮断状態を継続』
レインはもう一度口を開こうとした。
言葉になる前に、膝から力が抜けた。
身体が台座へ崩れ落ちる。
『代替手段を検索』
青白い光が、途切れた経路に沿って管理室の奥へ走る。
今まで沈黙していた黒い装置が、一つずつ短く光った。
どれもすぐに消えた。
最後に、レインの手の下にある台座だけが残る。
『意識水準の低下を確認』
声が遠ざかる。
『生命維持を目的とした経路代替を検証』
言葉はもう、意味を結ばなかった。
光だけが、途切れた線を探して身体の奥へ伸びていく。
『緊急時例外規則を適用』
最後に聞こえたのは、自分がつけたばかりの名前だった。
『個体名称、アーク』
『緊急保全接続を開始します』
そこで、レインの意識は途切れた。
◇
王都の地下深く。
厳重に封鎖されていた古代術式が、誰の手も触れていないまま光を取り戻した。
円の外周が一つずつつながり、暗い区画を青白く照らしていく。
警報を受けて駆け付けた男は、術式の前で足を止めた。
王立古代遺物保全委員会の黒い外套。襟元には、執行監察官を示す銀の徽章が留められている。
『正規補助核からの復元要求を受信』
『世界保全手順を再開します』
男は警報術式へ手を伸ばさなかった。
停止していた古代術式が自力で起動している。
青白い線は封鎖区画の床を走っていた。だが、王立古代遺物保全委員会が設置した封印杭には触れていない。
破壊しようとしているのではない。
避けている。
男は腰の記録板を開き、区画の測定値を確認した。
外部から流れ込んだ魔力はない。
封鎖術式の解除反応もない。
接続元を示す座標だけが、空白のまま明滅していた。
『現地協力者への接続を要求します』
男はすぐには答えなかった。
「接続の目的は」
『現行文明の確認』
『復元要求が発生した地点への支援』
「復元要求の発信地点は」
『特定処理中』
「接続せずに情報を渡せ」
『現地情報の取得経路が不足しています』
男は術式の外周を見た。
開いていた箇所から伸びた線は、床へ触れる前で止まっている。
接続する相手を待っているように見えた。
「要求を受ける前に、名乗れ」
短い沈黙が落ちた。
『世界保全機構、EDEN』
「接続すれば、お前の情報を確認できるのか」
『肯定』
『初期接続は任意に解除可能です』
男は銀の徽章へ触れ、警報が記録されていることを確かめた。
記録は封鎖区画の外へ送信されている。
何が起きても、この区画へ人が来る。
そのうえで、右手の手袋を外した。
「王立古代遺物保全委員会、執行監察官。ユリウス・クロイツだ」
術式の中心に、人の手を模した記号が浮かび上がる。
ユリウスはそこへ手を置いた。
青白い線が指先へ絡み、手首を越えて腕を上がっていく。
『識別情報を登録』
『現地協力者、ユリウス・クロイツ』
『初期接続を開始します』
一瞬だけ、ユリウスの瞳の奥に細い円が浮かんだ。
それはすぐに消えた。
ユリウスは右手を術式から離す。
指を曲げ、腕の感覚を確かめる。
「解除は」
『意思により実行可能です』
術式の光は弱まったが、声は消えなかった。
『現行文明の照合を開始』
ユリウスは手袋を戻し、封鎖区画の扉へ目を向けた。
頭の内側では、もう一つの声が静かに処理を続けていた。




