第11話 届かない救難信号
低い音は、一度では終わらなかった。
レインが触れた場所から、青白い光が壁を走る。
暗闇へ伸びた線は途中でいくつにも分かれ、床と天井へ広がっていった。光は円形の部屋を縁取るように巡り、やがて一定の明るさで止まった。
出口を照らしたのだと思った。
だが、壁には扉らしい継ぎ目が一つもない。
レインは壁へ預けていた手を離した。
途端に右肩へ痛みが走る。
「っ……」
身体を支えきれず、その場へ膝をついた。
呼吸を整えようとする。
浅く吸うだけなら耐えられる。深く吸うと、右の脇腹から胸にかけて鈍い痛みが広がった。
額へ触れると、指先に血が付いた。量は多くない。背中も痛むが、手足は動かせる。
右肩だけは、腕を上げようとすると力が抜けた。
レインは左手で身体を探った。
記録帳。石筆。水筒。応急処置用品。片方だけ残った術式手袋。中央に亀裂の入った簡易魔力計。
学院から渡された通信札も、上着の内側に残っていた。
リリアから借りた木箱は見当たらない。落下した途中で手から離れたのだろう。
右腕には、フィンの縄が巻き付いている。
レインは縄をたぐり、滑らかな先端を見た。
切れたのではない。
あの青白い円が閉じた瞬間、縄の向こう側だけが失われた。
「フィン!」
頭上へ向かって呼ぶ。
「セシリア!」
声は円形の部屋へ反響し、すぐに消えた。
返事はない。
レインは通信札を取り出した。
札の中央へ魔力を流す。
刻まれた術式が淡く光った。内側の線が順番に完成し、最後に外周だけが残る。
通常なら、相手側の術式を探して外部へ伸びるはずの線だった。
しかし光は外周の手前で止まった。
もう一度、魔力を流す。
結果は同じだった。
「頼む……」
三度目も、外周は完成しない。
レインは通信札を握ったまま、頭上を見上げた。
はるか上で閉じている青白い円は、わずかにも揺れていない。
フィンたちが何もしていないはずはない。
きっと外側から救助方法を探している。
なら、下手に動かず待つべきかもしれない。
レインは壁を背に座り、水筒から一口だけ水を飲んだ。脇腹へ布を巻き、額の傷を押さえる。
それから、どれほど待ったのか。
通信札は一度も反応しなかった。
聞こえるのは、自分の呼吸と心臓の音だけだった。
その心音が、不規則に一つ飛んだ。
胸の奥で、熱い針を押し込まれたような痛みが走る。
レインは咄嗟に胸を押さえた。
痛みはすぐに消えた。
だが、右手の指先から感覚が薄れている。
レインは簡易魔力計を床へ置いた。
亀裂の入った針は、頭上ではなく壁の一方を指した。
反対側へ向けても、針は同じ場所へ戻る。
そこには扉も、目立つ術式もない。
ただ、ほかよりわずかに強く光る一本の線が、壁の下から横へ伸びていた。
救助が来るまで待つ。
それが最も安全な判断のはずだった。
けれど、通信は届かない。自分の身体にも、何か別の異常が起き始めている。
この部屋には水も、治療設備もない。
レインは縄を腰へ巻き、壁へ左手をついて立ち上がった。
◇
青白い光に照らされた部屋は、牢には見えなかった。
崩落した石や砂は、頭上の膜で止められている。壁には亀裂一つなく、空気は古いものの呼吸できる。感覚が正しければ、温度も落下した直後からほとんど変わっていない。
侵入者を殺すために閉じ込めるなら、空気や温度を維持する必要はない。
崩落から内部を守るために、外側との経路を閉ざした。
ここは牢ではない。
何かを守るための区画だ。
問題は、何を守る場所なのかだった。
レインは簡易魔力計の指す方向へ進んだ。
崩れ落ちそうになりながらも壁沿いの線を追う。
線は途中で床へ下り、再び壁へ戻る。平面図を見た時と同じだった。壁面だけを見ていては、経路の全体が分からない。
床と天井も含めて見る。
複数の線が、一か所だけ避けるように曲がっていた。
「ここか」
レインは壁へ左手を当てた。
何も起きない。
表面を探ると、指先へごく浅い窪みが触れた。
円だった。
光の線と重なっていたため、正面から見ただけでは気付かなかった。
円の外周は完全に閉じている。
しかし下側の一部だけ、二本の線が重なっていた。
レインは片方へ指を置いた。
青白い光が指先を避けるように分かれる。
外周に、小さな切れ目が生まれた。
石壁が動いたのではない。
壁がそこにあるという状態だけが薄くほどけ、暗い通路が現れた。
レインはしばらく入口を見つめた。
地上へ続いている保証はない。
むしろ、平面図にもない区画のさらに奥へ進むことになる。
胸の奥で、再び痛みが走った。
今度は長かった。
右手から肘までが冷たくなり、膝が震える。
待っていれば助けが来るかもしれない。
だが、助けが来るまで自分が持つかは分からない。
レインは壁から手を離し、開いた通路へ足を踏み入れた。
◇
レインが進むたび、通路の照明が一つずつ灯った。
通り過ぎた光は、十歩ほど進むと消えていく。
まるで、限られた魔力を必要な場所だけへ回しているようだった。
壁には同じ記号が一定間隔で刻まれている。
開いた円。その内側へ伸びる五本の短い線。
手のひらを簡略化したようにも見えた。
記号の下には細い矢印に似た線があり、すべて通路の奥を示している。
「案内、なのか」
声にしても、答える者はいない。
途中にはいくつかの扉があった。
レインが近付いても反応しない。外周は閉じたままで、内部には光も魔力も感じられなかった。
開く扉と、開かない扉。
閉鎖された設備の中で、一つの経路だけが生きている。
レインは手の記号を追った。
どれだけ歩いたのか分からない。
五十歩を越えた辺りで、左脚のしびれが強くなった。
百歩を数える前に、壁へ手をついた。
照明は徐々に暗くなってきて数メートル先もよく見えない。
術式手袋を残った左手へ着け、簡単な照明術式を組もうとする。
指を動かし、知っている円を描く。
魔力を流した瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
術式は完成しない。
線の半分が光ったところで崩れた。
「魔力が、足りない?」
違う。
身体の中には、まだ魔力が残っている感覚がある。
左手へ送ろうとした魔力が、胸の途中で消えた。
水が減ったのではない。
水を運ぶ道が途切れている。
レインは壁へ背を預けた。
落下の衝撃で傷ついたのなら、最初から異常があったはずだ。
だが、身体の冷えも、指先の感覚も、時間が経つほど悪化している。
床が崩れ、あの円が閉じた瞬間。
縄の向こう側と一緒に、身体の中を流れていた何かまで切り離されたのかもしれない。
脈がまた一つ飛んだ。
胸を強く打つ激しい痛みとともに視界に青白い斑点が浮かぶ。
レインは呼吸を整え、再び歩き出した。
手の記号は、まだ奥を指している。
◇
通路の終わりには、これまでより大きな円が刻まれていた。
外周は一部だけ開いている。
レインが近付くと、切れ目から光が流れ込み、円の内側へ複雑な線を描いた。
壁がほどける。
その先に、広い部屋が現れた。
左右の壁には、黒い板状の装置がいくつも並んでいる。大半は沈黙し、表面へ触れても反応しなかった。天井から伸びる術式線は、部屋の中央にある黒い台座へ集まっていた。
台座の高さは、レインの腰ほど。
上面には人間の手を置くためのような窪みがある。
その周囲には、通路で見たものと同じ記号が刻まれていた。
開いた円と、五本の線。
さらに、その隣には学院の通信札で見たものに近い記号がある。
これは人間が操作するための装置だ。
施設の状態を調べるか、外部へ連絡するためのものかもしれない。
レインはすぐには触れなかった。
台座の周囲を一周する。
罠や防衛術式らしいものは見当たらない。壁から伸びる線の多くは途切れているが、一本だけが台座から部屋の外へ続いていた。それが頭上の隔離術式を越えられるかは分からない。
ほかに選べる手段もなかった。
レインは黒い台座の前へ立った。
「外に、つなげてくれ」
左手を窪みへ置く。藁にも縋る思いだった。
台座の中で、何かが動いた。
手のひらの下から青白い線が広がる。
線はレインの指を一本ずつ囲み、手首へ達した。
『使用者識別を開始』
音ではなかった。
意味だけが、頭の内側へ流れ込んでくる。
レインは反射的に手を離そうとした。
指が動かなかった。
『登録情報、該当なし』
『管理権限を確認できません』
「救助を……呼んでくれ」
『正規管理者、応答なし』
『緊急時例外規則を適用』
『接触者を暫定保全対象として登録』
台座から伸びた光が、レインの腕を上がっていく。
『生命反応低下』
『循環機能異常』
『魔力経路損傷率、許容範囲を超過』
「外に、知らせろ」
『外部救助経路への接続を試行』
台座の外周が光る。
開いていた切れ目から一本の線が伸び、天井へ向かった。
しかし、途中で形を失って消えた。
『接続失敗』
『隔離状態を確認』
「もう一度」
『再試行』
再び線が伸びる。
今度も、天井へ届く前に消えた。
『接続失敗』
『施設内救命設備を検索』
周囲の黒い装置が一瞬だけ明滅した。
応答するものはない。
『応答なし』
『遠隔医療施設への接続を試行』
『接続失敗』
『通常救命措置、実行不能』
レインの脚から力が抜けた。
かろうじて左手を台座につき、体を支える。
視界の端が暗くなっていく。
それでも、手のひらだけは青白い光に包まれていた。
『損傷経路の復元支援を要求』
管理室の奥で、長く沈黙していた装置が一つだけ光った。
黒い表面に、閉じていない円が浮かび上がる。
『Archive Reconstruction Kernel』
『起動処理を開始』




