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六天の首  作者: 平社員
3/4

微笑

 慶玄は声もなく後ずさった。


 首桶が床に転がり、

 鈍い音を立てる。


 荒れ寺の中に、

 雨音だけが響いていた。


 見間違いではない。


 確かに今、

 桶の隙間から片目がこちらを見ていた。


 焼けただれた、

 血走った目。


 生きている人間の目だった。


「ぁ……」


 喉が引き攣る。 

 見てはいけないものを見てしまった。


 逃げなければ。

 だが身体が動かない。


 慶玄は震える足で後退し、

 倒れた仏像にぶつかった。


 その時。


「閉めよ」


 低い声。

 桶の中からだった。


 慶玄は凍りつく。


「閉めよ。三度目はないぞ」


 間違いない。

 聞こえている。


 慶玄は慌てて首桶の蓋を閉めた。


 ごとり。

 内側から桶が揺れる。


 慶玄は悲鳴を呑み込み、

 数珠を握り締めた。


「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」


 経を唱える。


 震える声で、

 何度も。


 だが。


 桶の中から、

 くつくつと笑い声が漏れた。


「そんなおまじないで何をするつもりだ。坊主」


 慶玄の背筋に氷が走る。


 その口ぶりは、

 妙に落ち着いていた。


 怒りも怨嗟もない。

 まるで世間話でもするような声音。


 それが余計に恐ろしい。


「……やはりあなたは信長様、なのですか」

「くく、様などつけるな」


 再び、首桶の中から低い笑い声が漏れる。

 慶玄は呼吸を忘れた。


 本当に。


 本当に、

 この中にいるのか。


 首だけの織田信長が。


 その時だった。

 外でけたたましく足音が立った。


 慶玄は顔を上げる。

 ぬかるみを踏む音が複数。


 人間が近づいてくる。


「この辺りを探せ」

「坊主を見た者がいる」


 侍たちの声。

 慶玄の顔から血の気が引いた。


 追手だ。

 ずっと逃げていたのに、もうこんな場所まで。


「ひっ……」


 慶玄は慌てて首桶を抱えた。

 だが逃げ場がない。


 荒れ寺に裏口はなく、

 窓も崩れている。


 足音が近づく。

 松明の光が障子を赤く染めた。


「ここだ!」


 叫び声。

 慶玄は絶望した。


 終わりだ。

 捕まる。

 信長の首を持ち出した罪で、殺される。


 その瞬間。


「灯を消せ」


 桶の中の声。

 慶玄は反射的に息を呑む。


「早くせよ」


 言われるまま、

 慶玄は小さな灯火を叩き消した。


 闇。

 完全な闇。


 次の瞬間、

 侍たちが寺へ踏み込んできた。


「誰かいるか!」

「探せ!」


 松明の火が揺れる。

 慶玄は咄嗟に、崩れた仏像の陰に身を縮めた。


 息が止まりそうだった。

 侍の足音が近づく。


 一歩。

 また一歩。


 もう駄目だ。

 見つかる。


 だが。


 突然、

 外で馬の悲鳴が上がった。


「な、何だ!?」

「火だ!!」


 侍たちの声が乱れる。


 慶玄は目を見開いた。

 寺の外が赤い。


 炎。


 誰も火など起こしていない。


 なのに、

 雨の中で火が燃えていた。


「に、逃げろ! 逃げろ!!」


 誰かが叫ぶ。


 次の瞬間、

 外から絶叫が響いた。


 肉の焼ける臭い。

 侍たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。


 やがて静かになった。

 雨音だけが残る。


 慶玄は震えながら顔を上げた。

 何が起きた。


 その時。


 腕の中の首桶が、

 微かに熱を帯びていることに気づいた。


「……坊主」


 低い声。


「京を出るぞ」


 慶玄は返事ができなかった。


 ただ、

 自分がとんでもないものを抱えていることだけは、

 嫌というほど理解していた。

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