微笑
慶玄は声もなく後ずさった。
首桶が床に転がり、
鈍い音を立てる。
荒れ寺の中に、
雨音だけが響いていた。
見間違いではない。
確かに今、
桶の隙間から片目がこちらを見ていた。
焼けただれた、
血走った目。
生きている人間の目だった。
「ぁ……」
喉が引き攣る。
見てはいけないものを見てしまった。
逃げなければ。
だが身体が動かない。
慶玄は震える足で後退し、
倒れた仏像にぶつかった。
その時。
「閉めよ」
低い声。
桶の中からだった。
慶玄は凍りつく。
「閉めよ。三度目はないぞ」
間違いない。
聞こえている。
慶玄は慌てて首桶の蓋を閉めた。
ごとり。
内側から桶が揺れる。
慶玄は悲鳴を呑み込み、
数珠を握り締めた。
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」
経を唱える。
震える声で、
何度も。
だが。
桶の中から、
くつくつと笑い声が漏れた。
「そんなおまじないで何をするつもりだ。坊主」
慶玄の背筋に氷が走る。
その口ぶりは、
妙に落ち着いていた。
怒りも怨嗟もない。
まるで世間話でもするような声音。
それが余計に恐ろしい。
「……やはりあなたは信長様、なのですか」
「くく、様などつけるな」
再び、首桶の中から低い笑い声が漏れる。
慶玄は呼吸を忘れた。
本当に。
本当に、
この中にいるのか。
首だけの織田信長が。
その時だった。
外でけたたましく足音が立った。
慶玄は顔を上げる。
ぬかるみを踏む音が複数。
人間が近づいてくる。
「この辺りを探せ」
「坊主を見た者がいる」
侍たちの声。
慶玄の顔から血の気が引いた。
追手だ。
ずっと逃げていたのに、もうこんな場所まで。
「ひっ……」
慶玄は慌てて首桶を抱えた。
だが逃げ場がない。
荒れ寺に裏口はなく、
窓も崩れている。
足音が近づく。
松明の光が障子を赤く染めた。
「ここだ!」
叫び声。
慶玄は絶望した。
終わりだ。
捕まる。
信長の首を持ち出した罪で、殺される。
その瞬間。
「灯を消せ」
桶の中の声。
慶玄は反射的に息を呑む。
「早くせよ」
言われるまま、
慶玄は小さな灯火を叩き消した。
闇。
完全な闇。
次の瞬間、
侍たちが寺へ踏み込んできた。
「誰かいるか!」
「探せ!」
松明の火が揺れる。
慶玄は咄嗟に、崩れた仏像の陰に身を縮めた。
息が止まりそうだった。
侍の足音が近づく。
一歩。
また一歩。
もう駄目だ。
見つかる。
だが。
突然、
外で馬の悲鳴が上がった。
「な、何だ!?」
「火だ!!」
侍たちの声が乱れる。
慶玄は目を見開いた。
寺の外が赤い。
炎。
誰も火など起こしていない。
なのに、
雨の中で火が燃えていた。
「に、逃げろ! 逃げろ!!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、
外から絶叫が響いた。
肉の焼ける臭い。
侍たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
やがて静かになった。
雨音だけが残る。
慶玄は震えながら顔を上げた。
何が起きた。
その時。
腕の中の首桶が、
微かに熱を帯びていることに気づいた。
「……坊主」
低い声。
「京を出るぞ」
慶玄は返事ができなかった。
ただ、
自分がとんでもないものを抱えていることだけは、
嫌というほど理解していた。




