無常
夜が明けても、
空は灰色のままだった。
雨は細く降り続いている。
慶玄は山道を歩いていた。
京を離れるためだった。
もう町中にはいられない。
昨夜の騒ぎで、
明智勢は完全に“首を持つ僧”を探し始めている。
門も橋も見張られているはずだ。
だが、
京に残れば必ず捕まる。
慶玄は濡れた草履を引きずりながら山道を進んだ。
首桶は衣服を破いた布で包み、
背負っている。
重い。
まるで人間一人を背負っているようだった。
ときおり、
背中から熱が伝わってくる。
慶玄はそのたび顔を歪めた。
考えたくない。
だが頭から離れない。
本当に、
あれは信長なのか。
本当に、
死者が喋るのか。
「坊主」
もう聞き慣れてきた声が響く。
慶玄はぎくりと肩を震わせる。
「……何でしょう」
「その顔はつまらぬ」
「つまらぬとは何だ……!」
思わず怒鳴っていた。
恐怖より先に、
苛立ちが出た。
「私は……私はただの僧だぞ……!
なぜこんなことに……!」
山道に声が響く。
返事はすぐには来なかった。
やがて。
「この世は、いつだって不条理だからよ」
静かな声。
「何もしなければ、人は死ぬ」
「戦が起これば、寺は燃える」
「数珠を転がしながら祈っても、仏は焼ける」
慶玄は唇を噛んだ。
反論できなかった。
「貴様も見たであろう」
昨夜の光景が脳裏をよぎる。
燃える京。
沢山の死体。
民衆の悲鳴。
「……あれが天下だ」
慶玄は歩みを止めた。
「……あなたは、それを作った男ではないのか」
沈黙。
雨音だけが続く。
慶玄は自分の言葉を後悔した。
信長の機嫌を損ねたもしれない。
だが。
桶の中の声は、
低く笑った。
「そうよ」
ぞくりとした。
まるで誇るような声だった。
「人が人を喰らう世でなければ、国など変わらぬ」
慶玄は何も言えなかった。
恐ろしいと思った。
だが同時に、
なぜか耳を離せなかった。
この首は、
人を引き込む。
まるで炎のように。
昼過ぎ。
山道を抜けた先で、
慶玄は足を止めた。
関所だった。
木柵の前に、
数人の侍が立っている。
槍。
刀。
濡れた陣笠。
胸元には桔梗紋。
明智勢である。
慶玄の喉が鳴った。
「……終わった」
「まだよ」
桶の中の声。
慶玄は小さく震える。
「左の林を見よ」
言われた通り視線を向ける。
木々の奥。
細い獣道があった。
関所を迂回できるかもしれない。
だが。
「無理だ……見つかる……」
「ならば堂々と歩け」
「は……?」
「坊主らしくな」
慶玄は息を呑んだ。
本気なのか。
関所には侍がいる。
首桶を見つけられたら終わりだ。
だが、
林へ入れば逆に怪しまれる。
慶玄は震える指で数珠を握った。
行くしかない。
慶玄は深く頭を下げながら、
関所へ歩き出した。
侍たちの視線が刺さる。
「止まれ」
槍が向けられた。
慶玄は心臓が破裂しそうだった。
「どこの坊主だ」
「ほ、本能寺の……者です」
その瞬間、
空気が変わった。
侍たちの目が鋭くなる。
「本能寺だと?」
「昨夜の騒ぎから逃げて参りました……」
慶玄は震える声で言った。
演技ではない。
本当に震えていた。
侍の一人が、
背中の荷を見た。
「それは何だ」
慶玄の呼吸が止まる。
終わった。
だが。
「経典です」
声が出た。
自分でも驚くほど自然だった。
「焼け残った物を運んでおります」
侍はじっと慶玄を見る。
「服を破ってまで、運ぶほどの物か」
雨が降る。
首桶の熱が背中に伝わる。
頼む。
気づくな。
慶玄は必死に祈った。
その時。
遠くで馬の声。
侍たちが振り返る。
「伝令だ!」
関所の空気が慌ただしくなった。
馬が駆け込んでくる。
「徳川勢が動いたぞ!!」
その一言で、
侍たちの顔色が変わった。
「何だと!?」
「まさか京へ来る気か!?」
皆、
慶玄から意識を外す。
今だ。
慶玄は頭を下げたまま、
ゆっくり関所を通り過ぎた。
誰も止めない。
雨の中を、
慶玄は必死に歩いた。
関所が見えなくなるまで。
ようやく森へ入った時、
膝から力が抜けた。
慶玄は木にもたれ、
荒く息を吐く。
「……なぜ助ける」
掠れた声で問う。
「貴様が死ねば、わしは晒しものになるのでな」
桶の中で、
低い笑い声がした。
慶玄は目を閉じた。
その声を聞くたび、
少しずつ。
本当に少しずつ。
自分の中の何かが壊れていく気がした。




