表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六天の首  作者: 平社員
2/4

 夜の京を、慶玄は走っていた。


 雨は次第に強くなっている。


 着物は濡れ、

 草履は泥に沈み、

 息をするたび喉が焼けた。


 だが腕の中の首桶だけは離せない。


 抱えるたび、

 ずしりと重みが増していく気がした。


 本能寺の炎はまだ見える。

 京の空が赤い。

 まるで町全体が血を流しているようだった。


「……坊主」


 再び声がした。

 慶玄は立ち止まった。


 心臓が止まりそうになる。

 雨音しか聞こえない。


 だが確かに、

 声は首桶の中から聞こえた。


「だ、誰だ……」


 震える声で問う。

 返事はない。


 慶玄は息を荒げながら後ずさった。

 首桶を開けるべきか。


 いや。

 駄目だ。


 弥助は言った。

 ――誰にも見せるな。


 その言葉が頭から離れない。


 慶玄は首桶を抱え直し、

 再び闇の中を走り始めた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 京は地獄だった。


 逃げ惑う民。

 燃える町屋。

 倒れた死体。

 泣き叫ぶ子供。


 その中で、侍たちが怒号を飛ばしながら走り回っている。


「信長の首を探せ!!」


 その声を聞いた瞬間、

 慶玄の背筋に冷たいものが走った。


 皆、

 この首を探している。


 抱えているだけで殺される。


 慶玄は慌てて脇道へ入った。

 人一人がやっと通れるほどの、細い路地。


 雨水が足元を流れていく。

 暗い。

 だが人目はない。


 そこでようやく、

 慶玄は壁に背を預けた。


 足が震えていた。


 怖い。

 逃げたい。

 なぜ自分がこんな目に遭う。


 ただ寺で経を読んでいただけなのに。


 その時。

 ぴちゃりと水音がする。


 慶玄は顔を上げた。


 路地の奥に、

 誰か立っている。


 黒い影。


 雨の中、

 じっとこちらを見ていた。


「……誰だ」


 影は答えない。


 一歩、

 こちらへ近づく。


 慶玄は息を呑んだ。


 兜。

 甲冑。


 侍だ。


 腰には刀。

 溢れんばかりの殺気を放ちながら、歩みを進める。


 逃げなければ。

 だが足が動かない。


 侍は低い声で言った。


「その桶を見せろ」


 慶玄の喉が鳴った。


「し、知らぬ……!」

「見せろ」


 一歩。

 また一歩。


 侍が近づく。


 雨の向こうで刀が鈍く光った。


 慶玄は首桶を抱え、

 反射的に駆け出した。


「待て!!」


 怒声。

 背後で足音。


 侍が追ってくる。


 慶玄は狭い路地を必死に走った。


 転びそうになる。

 息が切れる。

 背後が近い。


 捕まる。

 そう思った瞬間。


「左へ行け」


 どこからか低い声がする。

 耳元だった。


 慶玄は凍りつく。


 だが次の瞬間、

 後ろで刀が壁を叩いた。


 反射的に左へ曲がる。


 狭い階段。

 崩れた塀。


 慶玄は転がるように駆け下りた。


 直後、

 後ろで侍の怒鳴り声。


「どこへ消えた……!?」


 慶玄は物陰に身を伏せた。

 息を吐きたいところであるが、必死に止める。


 しばらくして、

 侍の足音が遠ざかっていく。


 やがて静寂。

 どうやら助かったようだ。


 慶玄は体の力が抜けたのか、膝からその場に崩れ落ちた。


 全身が震えている。

 なぜ道が分かった。

 誰が囁いた。


 恐る恐る、

 腕の中の首桶を見る。


 雨が桶を濡らしていた。


「……貴殿は、信長様なのですか」


 答えはない。

 だが。


 桶の中から、

 微かに笑うような音が聞こえた気がした。


 


 夜明け前。

 慶玄は鴨川近くの荒れ寺へ辿り着いた。


 かつては寺だったのだろう。


 今は半ば焼け落ち、

 仏像も崩れている。


 だが雨風はしのげる。


 慶玄は震える身体で中へ入った。

 首桶をそっと床へ置く。


 その瞬間。


 ごとり。

 桶が揺れた。


 慶玄の顔から血の気が引く。


 見てはいけない。

 開けてはいけない。


 だが。


 本当に中にあるのは、

 何なのだ。


 慶玄は吸い寄せられるように桶へ手を伸ばした。


 ゆっくりと蓋に触れる。

 冷たい。


 震える指で、

 わずかに蓋を浮かせる。


 暗い隙間。

 そこから。


 片目が、

 慶玄を見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ