炎の夜
この作品は、史実を元にしたフィクションです。
六月二日。
京の夜は、ひどく静かだった。
若い僧・慶玄は、本能寺の渡り廊下を膝をついて拭いていた。昼間に降った雨の湿気が木に染み込み、古い板からは冷たい匂いが立っている。
寺は広かった。
武家の寺らしく、どこか城のようでもある。
だが今夜は、人の気配が少ない。
皆、奥へ詰めていた。
寺に滞在している、とある男のせいである。
織田信長。
天下に最も近い男。
第六天魔王。
そう呼ばれる男が、今、本能寺にいる。
慶玄は、その名を思い浮かべるだけで胸がざわついた。
数刻前、一度だけ信長の姿を見た。
本堂の奥。
赤い灯に照らされながら、魔王はひとり、静かに舞を舞っていた。
能だった。
音もない。
ただ衣擦れだけが暗い堂内に響いていた。
慶玄は灯明を替えるためにそこへ入ったが、あまりの重圧に声をかけることもできなかった。
信長は舞を止めず、ただ一度だけ慶玄を見た。
その目を思い出す。
氷のように、冷たい目だった。
人を何千も殺してきた武将の目ではなく、もっと別の何か。
人ではないもの。
慶玄は、理由もなくそう感じた。
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「……妙な夜だ」
慶玄が掃除を続けていると、背後で古参の僧が呟いた。
慶玄が振り返る。
老僧は目を限りなく細めながら、庭を見ていた。
「妙、ですか」
「ああ。仏の気配が薄い」
意味の分からぬ言葉だった。
老僧はそれ以上何も言わず、闇の奥へ消えていく。
その直後だった。
――パンッ。
乾いた破裂音。
慶玄は肩を震わせた。
続けて二発、三発。
寺の外が騒がしくなる。
怒号。
駆ける音。
馬のいななき。
そして。
「敵襲――!!」
絶叫が夜を裂いた。
慶玄は立ち上がった。
次の瞬間、障子を突き破って矢が飛び込み、柱に突き刺さる。
寺が、一瞬で地獄になった。
「桔梗の旗印だ!!」
「囲まれたぞ!!」
「火を放てぇ!!」
あちこちで悲鳴が上がる。
慶玄は呆然と立ち尽くした。
なぜ。
どうして。
本能寺が襲われている?
混乱する頭のまま廊下を走る。
僧たちが逃げ惑っていた。
血を流して倒れる者もいる。
炎はあっという間に天井へ燃え移った。
赤い。
世界が赤い。
「逃げろ!!」
誰かに突き飛ばされ、慶玄は転んだ。
目の前に、首のない死体が倒れる。
喉の奥から悲鳴が漏れた。
立てない。
足が震える。
その時だった。
「――坊主」
低い声。
慶玄は顔を上げた。
燃え盛る廊下の向こう。
そこに漆黒の鎧を付けた男が立っていた。
背が鬼のように高く、その姿は異形のものであった。
確か、弥助と呼ばれていた信長の護衛の男である。
炎を背負いながら、弥助は静かにこちらを見ている。
彼は両手で、黒い桶を抱えていた。
漆塗りの首桶。
慶玄の背筋が凍る。
弥助は桶を彼に差し出した。
「坊主……これを……」
「え……」
「運べ」
弥助が言った。
短い声だった。
だが逆らえなかった。
慶玄は震える手で首桶を受け取る。
ずしりと重い。
そして――温かかった。
中に何があるのか。
考えた瞬間、吐き気が込み上げる。
「明智に渡る前に、富士山の近く西山本門寺にて信長様を弔ってほしい」
その目が、まっすぐ慶玄を射抜く。
「なぜ、私に」
「信長様が死の間際に、そう仰られた」
弥助は続けて、低い声で告げた。
「決して誰にも見せるな。勿論、自分自身にもな」
次の瞬間。
天井が崩れた。
慶玄は反射的に首桶を抱え込み、走った。
何も分からなかった。
ただ炎が巻き起こる廊下を、無我夢中で逃げた。
燃える仏像の横を抜け。
寺の者だけが知る地下通路へと。
後ろでは怒号が響いている。
「首を探せ!!」
「信長の首だ!!」
慶玄は地下通路を通り抜け、息も切れ切れになりながら本能寺の外へと脱出した。
振り返ると、空が赤い。
本能寺が燃えている。
巨大な炎が夜を染め上げていた。
あの中に、
あの男は消えた。
だが腕の中の首桶は、まだ温かい。
震える。
息が苦しい。
その時。
桶の中から声がした。
「……坊主」
慶玄の全身から血の気が引いた。
雨が、ぽつりと降り始めた。




