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茨木くんと名雪さん  作者: 橘悠


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【名乗るほどでもない事件】

ゼミ室に入ると、名雪さんが机に両手をついていた。


その視線の先には、空になった紙袋。


「事件です」


「いきなりですね」


「私が昼休みに買ったパンが消えました」


「パンですか。さっき買ってたメロンパンですよね?」


名雪さんの動きが止まった。


ゆっくりと顔だけがこちらを向く。


「……茨木くん」


「はい?」


「私はいま、“パン”としか言ってない」


「そうですね」


「なのに、なぜ君は“メロンパン”だと知っているのかな?」


「いや、購買で買ってるところ見ましたから!」


名雪さんが、びしっと俺を指差した。


「犯人は、君だ!」


「雑すぎるでしょう、その推理!」


「被害者しか知らない情報を知っている。これは決定的証拠!」


「目撃者も知ってますよ!」


「なるほど。犯人はそうやって無実を主張するわけだね」


「俺を犯人にする前提で話を進めないで下さい!」


名雪さんは少し顎を引き、妙に格好をつけた。


「大学生名雪、探偵さ」


「その決め台詞を言いたかっただけでしょう!」


そもそも被害者本人が探偵を兼任している時点で、だいぶ怪しい事件である。


俺は机の上の紙袋を覗いた。


中身は空。レシートだけが残っている。


「で、本当にここに置いたんですか?」


「置いた。講義に行く前、机の右端。完璧に覚えてる」


「では、窓は?」


「閉まってた」


「ドアは?」


「鍵はかけてない」


「それなら誰でも入れますよ」


「密室殺人じゃない……!」


「パンは殺されてません」


名雪さんは部屋を見回し始めた。


机の下、本棚の横、コピー機の裏。


「犯人は必ず現場に戻るっていうし」


「メロンパン泥棒が戻ってくる理由あります?」


「罪悪感」


「良心的すぎます」


俺も一応、周囲を確認する。


するとゴミ箱の一番上に、見覚えのある透明な包装があった。


ラベルには『メロンパン』。誰かが食べた証拠である。


名雪さんが固まる。


「……これは?」


「先輩、自分で食べたんじゃないですか?」


「いやいや。私は被害者だよ?」


「メロンパン買ったあと、何してました?」


名雪さんの眉間に皺が寄る。


「バックに入れっぱなしだと、潰れそうだったから紙袋を机に置いた事は覚えてる」


「その後は?」


「……そこが思い出せない」


「重要部分だけ記憶から抜けてますね」


名雪さんは腕を組み、記憶を掘り返し始めた。


「そのあと……あ、電話が来た」


「電話ですか?」


「ゼミの子から。教授が資料を探してるから、教授室に来てって」


「それで急いで出た、と」


「うん。戻ってきたら、そのまま講義に行った」


なるほど。


つまり、メロンパンを机に出した直後に電話が入り、その後の行動自体が記憶から押し流されたらしい。


「先輩自身がどこかにしまった可能性ってないんですか?」


名雪さんはゴミ箱から透明な包装をつまみ上げた。


「しかし、ここには物証もある」


「製造日とか確認してみて下さい」


「えーと……昨日」


「昨日食べたやつじゃないですか」


「物証が死んだ!」


「証拠に生死を設定しないで下さい」


名雪さんはがっくり肩を落とし、何気なく机の引き出しを開けた。


中から、未開封のメロンパンが出てきた。


二人で黙る。


「あ」


「ありましたね」


名雪さんはメロンパンを持ち上げる。


数秒後。


「ああっ!」


「今度は何ですか」


「思い出した! 自分のデスクの引き出しに避難させたんだ。その瞬間に電話が鳴って、そのまま出ていった」


「完全解決ですね」


「犯人は?」


「いません」


「黒ずくめの組織は?」


「もっといません」


「じゃあ茨木くんは?」


「最初から無実です!」


名雪さんは椅子に座り込み、頭を抱えた。


「記憶って、昨日の自分が今日の自分に仕掛ける叙述トリックなんだね」


「や、先輩のは今日に仕掛けてますよ。正直、記憶力が心配になります」


「でも、紙袋だけ残ってたのが良くないよ。あれ完全にミスリードだもん」


「仕掛けたの先輩自身でしょう」


「自作自演の完全犯罪……」


「犯罪ですらないです」


名雪さんはしばらくメロンパンを眺めたあと、もう一度顎を引いた。


「大学生名雪、探偵さ」


「推理全部外した人が格好良く締めないで下さい!」


事件は解決した。


というか、最初から事件なんてなかった。


名探偵に必要なのは観察力でも推理力でもなく。


まず、自分が今日何をしたか覚えていることなのかもしれない。

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