鯨は足跡を残さない。
六月下旬。美術予備校に通いたいと親に言った。金銭面以外の事は自分で調べることを条件に、承諾を得た。
大手の美術予備校はお金も多くかかるし、何より生徒が多すぎてきちんと見てもらえない。ただでさえ中学高校と私立の一貫校に通わさせて貰っている。
個人の予備校を探し、本田京子という先生がやっている個人の予備校に辿り着いた。藝大工芸科卒の陶芸家でもあり、また、美術教諭としても活動しているらしく、かなりうってつけの予備校だった。両親は二つ返事で了承し、ある程度必要なものを買い揃えてから、本田先生の元に通う事になった。
日曜日の午後。本田先生の予備校に行くために電車に乗り、少し歩いて、屋敷のような建物に着いた。インターホンを押して、言われた通り建物の二階に向かう。どこか新鮮で、少しの緊張もありつつ、辺りを見渡しつつ階段を登る。
「……あれ? 先生が言ってた新しい子って、もしかして?」
「夏目? なんでここに?」
「私、美大のデザイン科目指してるんだ。まあまあ、入りなよ」
廊下でお茶を飲んでいた夏目と出会い、まさかの邂逅に若干驚きつつも、まあそういう事もあるか、と思い直して扉を開ける。
「え、犀川先生……?」
「あら、いらっしゃい〜。座って座って。驚かせたかしら? 陶芸家としては本田京子を名乗っているのよ。公的には犀川だから、どちらでも好きに呼んで」
夏目に犀川先生と、世界は思ったより狭いんだな、と実感しつつ、室内をゆっくりと見渡す。石膏像、紙立体、イーゼル。
知らない数人の生徒がちらちらとこちらを見ていた。軽く笑みを浮かべながら会釈をする。仲良くなれたら良いな、とは思うものの、どこか品定めするような強い眼差しも感じる。
芸術の世界は厳しい。簡単に藝大の名を出せるほど、甘くはない。背筋が伸びるが、どこかその緊張感が楽しかった。ここは多分、肩書きのある有栖川真琴を求めない。
夜八時半。とりあえず絵のある程度の描き方の座学と並行して、一枚の鉛筆デッサンを仕上げた。六時間。
あまりにひどい仕上がりに苦笑する。比率、面の取り方と濃淡という教えて貰った初歩でさえ、まともに出来ていない。
そっと目の前の夏目の絵を見る。瓶と布、そして林檎の静物画デッサン。上手かった。悔しかった。ここに来て初めて、自分で描いて、壁を見た。
頑張らなきゃな、と思う。溜息を吐き、「なかなか筋が良いわよ」と微笑む先生に礼をして、片付けをする。室内には夏目と自分と先生しかいない。片付けも周りはテキパキと終わらせている。
鉛筆の削り方、持ち方。面の捉え方、塗り方。構成、切り取り方。初歩中の初歩から、一つずつやっていっても、追いつけないかもしれない。少し気持ちが重かった。
「鉛筆デッサン、難しいよね〜」
黒鉛で汚れた手を洗っていると、いつの間にか隣で同じように手を洗う夏目に声をかけられた。
「頑張らなきゃなって思った」
「初日で六時間やれるの、すごいよ」
「夏目の絵、見たよ。すごく上手かった」
「あはは、ありがと。まあ私は美術部だし」
謙遜を交えた夏目の、しかしその目だけは強かった。息を呑む。
自分もこうなれるだろうか。こうなれるだけの、覚悟があるだろうか。
石鹸で黒鉛が溶けていく。自分の気持ちの弱さが浮き彫りになるような気がして、心が重くなった。
「夜九時までなら空けておくから、平日も来ていいわよ。自主的に来て描く分には大歓迎だからね」
遅くなると危ないから気をつけて帰ってね、と先生は言って、朗らかに笑った。
夏目と共に鉛筆や練り消しをしまい、カルトンから絵を外す。一年半後には上手くなっていますように、と思いながらスケッチブックの中にそれを入れた。ざらりとする紙の質感を、やけにはっきりと感じた。
「ありがとうございました」
先生に礼をして、夏目と共にドアノブに触れようとした。こちらがそれを掴むより早く、扉が開く。
「朝日奈……?」
朝日奈葵月。自分をムードメーカーとして使わない稀有な同級生。
なぜここに、と思ったものの、彼がここにいる事が、美術部でもないのに美術室で過ごしていた理由と繋がって一人で納得した。同時に、藝大の事を訊くなら犀川先生の方が詳しい、と言っていた意味も今ならわかる。
「ありがとうございま……うわ、びっくりした、有栖川?」
「あら、二人とも知り合い?」
瞬きをする朝日奈と、こちらを見て問いかける犀川先生に挟まれ、へらりと笑って答える。
「同級生です」
「あら! 素敵。切磋琢磨できるわね、じゃあ時間も遅いから気をつけて帰りなさいね〜」
ひらひらと手を振る犀川先生に、ありがとうございました、と礼をしてから平然とした顔で階段を降りる二人を見ながら、窓の外の夜に視線を移した。学校とは違う。それが、どこか新鮮だった。
***
「じゃあ、また明日!」
私こっちだから、と反対のホームに来た電車に乗る夏目に軽く手を振って、自販機の目の前で動かない朝日奈を見る。表情が固い。何をそんなに悩んでいるのかと思い声をかけた。
「買わないの?」
「水がない」
「ほんとだ、売り切れてる」
目を細めて渋い顔をしている朝日奈を見て、味がついた飲み物は好きじゃないんだな、と思う。
それがどこか彼らしい気がした。代わりに軽く笑いながら、ブラッドオレンジのジュースを指差す。
「個人的にこれは美味しかった。飲んだ事無いなら買ってみたら?」
彼はこちらの顔を見てから、指の先のボタンにもう一度視線を向ける。そのまま恐る恐るといった様子でボタンを押した。瞳の奥の微かな青が揺れている。
「どう?」
「美味しい」
普段無彩色しか纏わない彼の手に、似つかわしくない橙があるのが少し面白かった。
ゆっくりとキャップを閉めてから、あまりにも無愛想で淡白な感想を彼は口にする。しかし、それが本心である事を知っていた。代わりに、少し得意げに笑ってから、人の流れに従って電車に乗る。
「だろ」
学校の中は息苦しい。友達はいる、五十嵐、水無瀬を筆頭とした気楽な付き合いはあって、それは悪くないな、と思う。しかし、時々、立ち止まりたくなる。でも、立ち止まったら彼らは多分手を差し伸べてこちらを待たない。それは、彼らが優しくないからではなくて、ただ単に、そういう形の友達ではないだけだ。
その事実が、齢十七のただの高校生には、少しだけ重かった。
だから、いつか言おうと思った。
彼の家庭環境も、自販機の前で止まったのも、何もかも本当のことを知らないけれど、自分の前に居た同級生が朝日奈葵月で良かった、と。




