鯨は窓辺で眠らない。
午前十時過ぎ。彼の母親の美貌に多少クラスはざわめきつつも、本人が場に居ないのもあり、朝日奈の名前が一人歩きすることはなかった。彼の性格を考えても、誰の母親かわからないが物凄い美人がいた、という事になる方が良いだろうな、と思う。
似ていたな、と思う。同級生の顔をわざわざ見るような事はしていなかったが、絵画と言われた方が納得できる精巧さは、母親譲りなのだろうなと思った。芸能人の持つ美しさとは違う、ガラス細工のような雰囲気と佇まい。
「そろそろシフト交代。受付変わるよ〜」
水無瀬の声で我に帰る。ありがと、と言いつつ腰をあげ、ロッカーに置いた鞄を取りに行く。五十嵐が重そうな荷物を持ち、「じゃあな」と教室から出て行った。鞄にスマホと貴重品があるのを確認する。おつかれさまー、と自分も扉を引こうとして、水無瀬に呼び止められた。
「有栖川、スマホ忘れてるよ」
「え?」
「ほら、これ」
何かを言う前にスマホを渡され、それが朝日奈が置いていったものである事を理解した。荷物があるなら教室に戻ってくるだろうけれど、と考えたところで、そもそも彼が何も持たずに学校に来ていた事を思い出した。
まあそうだよな、と思う。スマホさえあれば今日は問題ない。校内の自販機も食堂も電子決済が導入されているので、売店で現金がなくて困ることもない。彼の普段の感じを見るに、物を多く持つタイプでもない。
「あいつ、置き忘れていったのか……」
水無瀬はもう準備に取り掛かっていた。自分がここにいても迷惑になるだけなので、取り敢えずスマホを持ったまま教室を出る。どうしようか迷い、「もし朝日奈が教室に帰ってきたら俺に連絡して」と伝えた。
そのまま教室の隅にでも置いておけば事なきを得るとは思ったが、彼の明るくはない家庭環境を少し知ってしまった今、放っておくのは良心が痛む。
これが人付き合いのための偽善かどうかは自分でもよくわからなかった。多分五十嵐がスマホを忘れていたとしても、自分は同じ事をしたと思う。しかし、何か違うような気がした。その違和感の名前を、自分はまだ持っていない。
「……どこにも居ないな」
午前十時半。ある程度文化祭を楽しみながら朝日奈を探すが、どこにも見当たらない。友達と馬鹿やって遊ぶようなタイプでも無さそうだもんな、と思う。水無瀬からの連絡はない。家に帰るなら駅で気付くだろうし、まだ校内にいる可能性が高い。じゃあどこで何をしているんだ、と思ったところで、一つの答えに気がついた。
「あ、美術室」
部活には入っていないはずだが、昨日は美術室に居た、と言っていた事を思い出す。大学のことを聞いた時も、彼は美術教諭の犀川先生の名前を出していた。意外にも関わりがあるのかもしれない、と思いながら美術棟に足を運ぶ。
途中に見えた視聴覚室に美術部の展示がされており、本当に美術室が開いているのか疑問に思いつつも階段を降りる。二年になってから美術も音楽も授業は無くなったので、ここにくるのは久しぶりだな、と軽く呟きながら扉の前に立つ。電気はついていて、微かに人の話し声がした。
失礼します、と扉を開ける。
「あれ?」
複数の生徒が雑談しながら絵を描いている。扉に気付いたのか、その中にいた夏目が顔を上げた。
「どしたのー? 犀川先生なら展示の案内してるから視聴覚室にいるよ」
「朝日奈を探してて。教室にスマホ忘れてたから」
「ああ、小鳥遊か。その後ろで寝てるよ」
朝日奈、という名字に一瞬考え込んだものの、すぐに彼のことだと分わかったらしく、夏目は資料が貼ってあるパネルの後ろを指差した。「美術部に入部するのかと思った」と笑う夏目に「違う違う」と軽く返答をしながら、パネルの奥を覗く。
「朝日奈、スマホ教室に忘れてたよ」
彼は机に伏せていた。反応がない。多分、夏目の言うとおり、寝ている。
机に置かれた食パンの切れ端の黒さが理解できず、首を傾げてから、その隣のイーゼルに置かれた白黒の絵に息を呑んだ。
陳腐な言葉でしか表し方を知らなかったが、藝大に行く人間とはこれを言うんだな、と頭で思うよりも早く理解した。
空気感も、色合いも、何もかも一本の木炭から滲んでいた。
きれいだった。
「……有栖川?」
人の気配に気付いたのか、朝日奈が瞬きをしながら頭を起こし、こちらを向いた。
「スマホ忘れてたから。……これ、朝日奈が描いたの?」
「……あ、俺、シフト途中で抜けたわ。ごめん」
「数分くらいだったし、大丈夫」
絶妙に会話は噛み合っていないが、彼は「ありがとう」と言いながらスマホを受け取った。本当に寝ていたらしく、いつもよりも動作が遅い。意外と人間味があるな、と思いながら、未だ眠そうな朝日奈を見る。
「……先生に用があるついでに来たんじゃないの? 多分ここにはいないけど」
どうしようか迷って立ちすくんでいると、不思議そうに彼がこちらを見ていた。
調子が狂うな、と思う。ムードメーカーの肩書を必要としない彼を相手にすると、自分の行動の理由がよくわからなくなる。
「先生?」
「そう。大学の事とか、絵の事とか」
「いや、普通にスマホ忘れてたから渡しに来ただけ」
それを聞いて少し驚いたような顔をした朝日奈は、目を伏せて視線を逸らした。やはりわかりやすい。
「スマホ、ありがとう。じゃあまた、来週」
余程眠たかったのか、彼はのんびりとした声のまま机に伏せた。まだ寝るつもりらしい。
母親から逃げるように席を立った時の声の面影はなく、少しだけ安堵する。平気なように見せているのか、そうではないのかはわからなかった。
ひらひらと手を振る夏目に会釈をして、美術室を後にした。
良かったな、と思う。別に友達が全てではないし、人間関係が広い事が全てではない。それは身をもって知っているが、ただ、彼は常にどこか一線を引いていた。
自分の一線が肩書を背負う事で本心を悟らせないものだとするなら、彼の一線は、不必要に語らない事で何かを隠すものだった。
だからこそ、部員でもないのに美術室で悠々と過ごしている彼は意外だったし、それが少し嬉しかった。
「お節介が過ぎるか」
そこまで考えて、軽く笑った。癖になっているんだろうな、と思いながらも、悪い気はしなかった。
多分、彼を前にした時、自分はただの友達として振る舞っていた。
交友関係のためではなく、友達としての気遣い。
文化祭の賑わいに耳を傾けながら校舎を歩く。空が遠く、心地良かった。
ずっとこのままだったら良いのに、と思った。それが何故かは、まだわからなかった。




