鯨は雨を溶かさない。
校内祭も終わり、文化祭当日。シフトは午前だけだったので、早めに学校に行く。
朝七時半。前日の校内祭でも好評だった黒板を見ながら、机の横に掛けておこうかと思ったが、鞄は後ろに置く事にして、紺のパーカーを羽織った。
夏目のいる七組は結局射的と喫茶店を融合させたものになっていた。夏目が楽しそうで、変な責任を負っていなくて良かったな、と思う。手伝ってもらった朝日奈の友達にも会釈をしておいた。彼は人の良さそうな笑みを返してくれて、なんというか、朝日奈の友人関係が少し面白かった。人間味を削ぎ落とした彫刻のような風貌をしている割に、友人は明るいタイプが多い。意外と根は明るいのかもしれない、と思う。
特定の友達とずっとつるんでいないだけで、クラスに馴染めていない訳でも無かった。一人でも生きていけると言わんばかりの気質かと思っていたが、きっと、感情がわかりやすく表に出ないだけだった。
「おはよー。シフトって九時から十時だったっけ?」
「そうそう」
五十嵐が教室に入って来た。眠そうに目を擦りながら、鞄を後ろのロッカーに置いて、スマホと財布をパーカーのポケットに入れ、窓際にもたれている。
「校内祭全部見た?」
「ある程度は。午後からは適当に回ろうかなって思ってる。五十嵐は?」
「部活行く。大会あるし」
「道理でその荷物なのか。大変だな、頑張って」
午前中のシフトを組まされている、出席番号が早い生徒たちが続々と教室に入って来て、軽く雑談をする。チャイムが鳴って、八時半を知らせた。
扉が開いて、朝日奈の姿が見えた。いつもより少し早い。文化祭楽しみだったのか、と思い、机にスマホを置いた彼に声をかける。
「おはよう。今日早いじゃん」
「土曜だから」
「土曜だから?」
「学校がない」
「四限までとはいえ、いつもあるけど?」
「俺はね。妹がいる」
相変わらず口数が少ないものの、彼がホームルームを飛ばす理由がそこに垣間見えて、何を返そうか一瞬戸惑った。先生に言えば、と口にするのは簡単だが、多分彼はそれをあえて選んでいない。そこにどんな理由があるのかはわからないが、自分が口を出すべきではなかった。
「昨日の校内祭全部回った?」
「いや、全然。何も見てない」
「え、じゃあ昨日何してたわけ」
「美術室借りて絵描いてた」
まさかの回答に思わず笑ってしまった。彼は自分のように、他者からの見られ方をあまり気にしていない。女子の一人でも誘えば簡単に上手くいきそうなものだが、そういうものに手を出す気配もない。孤高という言葉が似合うな、と思う。
他愛のない話をしながら時間を潰していると、そろそろ準備するように放送がかかった。
そろそろか、と腰を上げ、スマホと貴重品をパーカーのポケットに入れる。「俺らは受付だっけ」と訊くと、「そう」と相変わらずの短文で返答が返ってきた。その一見無愛想に見える温度が、楽しかった。
彼は、肩書を持たない有栖川真琴の、初めての友達だった。
午前九時半。受付のブースに座って、生徒や保護者の相手をする。
軽く挨拶し、ルール説明、そして一律でプラスチックのコインを渡すだけの、流れ作業。
たまに楽しそうに話しながらディーラーを務める五十嵐や、女子から連絡先を聞かれ、軽く目を細めながら適当に返事をしている朝日奈とも雑談を挟む。
「一人や二人くらい、連絡先渡せばいいのに」
「碌なことにならない」
「それもそうか」
たまにクラスメイトの兄妹が教室に入ってくるのが面白かった。水無瀬の弟がブラックジャックで大勝した時はクラスが軽く沸いた。調子に乗ってそのままポーカーのブースに行き、手持ちのチップが無くなるまで負けたところまで鮮やかで、水無瀬が頭を抱えていた。参加賞のお菓子は喜んでくれたようで良かった。
「お前らは家族来るの?」
仕事が無くなったのか、五十嵐がこちらに話しかける。一瞬息を止めて、ゆっくりと吐いた。
「親は来るかもって言ってた。姉は来ない」
「有栖川のお姉さん見てみたかったな、残念。朝日奈は?」
「来ないんじゃ……え、」
穏やかに返答していた彼の声色が途中で途切れる。視線は自分たちではなく、廊下の方を向いていた。怪訝に思い、その視線を追いかける。
小学生ほどの女の子と、日傘を持ち、軽く目を伏せている女の人。
顔色が良い訳ではないが、それがかえってどこか退廃的な美しさすら感じさせた。透き通る肌に、長い睫毛。唇に引かれた赤が、まるで絵画のようだった。
五十嵐と目を見合わせる。教室の後ろの方で雑談している生徒はまだ気付いていなかった。普通なら小学生の子供を気にかけるところだが、それを許さないほどに女の人の雰囲気に引き込まれる。
触ったら壊れそうなほどの儚さと、憂いを帯びた、しかしどこか涼しげな目元。
この世のものではないような佇まいを見て、理解した。
その物憂げな視線を、知っている。
なんで、と自分にしか聞こえない程小さな声がして、横目で彼を見た。
瞳が揺れている。喜びから来るものではない、何か別の、もっと複雑な色が。
「あれ誰? びっくりするくらい美人じゃん」
五十嵐が耳打ちする。それには答えず、目だけで返答し、教室の後ろを軽く見渡す。まだ後ろは気付いていない。
「水買いに行く」
彼がそう言って、席を立つ。極限まで温度を削った声。「わかった」と返答し、彼の母親に目を合わせる。彼女はこちらではなく、席を立った朝日奈を見てから、読み取れない感情を乗せた声で名前を呼んだ。五十嵐には聞こえないほど小さく、しかし確かに。
「葵月」
親が子を呼ぶ声ではなかった。ただ、人間を識別するための名前として、音にしただけの声。
それが怖かった。穏やかで柔らかな声の高さで、意味のないただの番号のように名前を呼ぶ。
「もう、ちゃんと話せるのね」
彼は答えない。黙って身を翻し、その場を去る。九時五十分のチャイムが鳴った。
クラス内のざわめきは止まない。あと十分で仕事は終わる。彼はきっと、戻らない。




