鯨は孤独を厭わない。
校内祭前日。「黒板ってどうするんだっけ」と呟いた五十嵐の一言が、今、自分を放課後の教室で悩ませていた。
椅子や机を並べ、装飾をして、ディーラーとしてある程度話せるように準備するだけで一日が終わった。
クラスのパーカーがあるとはいえ、ただでさえ私服が許されたこの学校で、お洒落をしない女子はいない。元々見た目の校則が緩いのもあり、放課後は帰り道にアクセサリー類を買いに行くと言って、颯爽と教室から出ていった。
「俺そういうの下手だし。有栖川、任せた」と能天気な五十嵐の声を思い出す。彼は部活があるとか言って教室から出ていった。
高校生だな、と思う。勉強が出来ない訳ではない。視野が狭い訳でもない。ただし、それが悪意から来るものでは無かったとしても、知らず知らずのうちに人を使う事を知っている。
五十嵐に悪気はない。黒板をどうするかを考えなかった実行委員にも、それに気付かなかった生徒も、見ないふりをした誰かも、悪くはない。
悪くないから、どこかで誰かがどうにかするしかない。
溜息を吐く。チョークを握りしめたまま、黒板の前で立ちつくす。準備が終わっていない他クラスはまだ騒がしいが、一組は比較的上手くいったので、この教室に人はいない。いつもとは違う、赤いテーブルクロスがかけられた机の並び。
夕方五時半。担任が放任主義すぎるとこういう事が起こるな、とぼんやりと考える。
窓から見える運動場で自主練をしている数人を軽く見ながら、どうしようかな、と呟く。思ったよりも声は掠れていて、少し苦しかった。
せめて美術部の誰かに頼めよ、と心の中で呟いて、クラス内に美術部が居ないことを思い出した。
適当に黒板アートや文化祭といった単語をスマホに打ち込んでみたものの、どれも参考にならない。
夕方六時。数十分ほど教室で何もせずに過ごしていたらしい。何もしない事には始まらない、とチョークを握る手に力を入れた。しかし、右手は動かない。
「あ、ここにいたんだ。これ、先生から」
突然教室の扉が開いて、声が降ってきた。思わず顔を上げる。
朝日奈葵月。相変わらずの仏頂面ではあったが、「先生から。資料を集めておいたらしいから、参考になればって」とファイルを差し出される。何故こんな時間に彼がまだ学校にいるのか全くわからないが、それよりも、資料が何なのかを訊くことを優先した。
「資料?」
「大学の。早い方がいいよ、美術系は」
「助かる、ありがとう」
「うん。……使わないんじゃないの、黒板」
彼は教卓に剥き出しのチョークと、消された後の残る黒板を見る。真っ直ぐにこちらを見る視線に多少決まりが悪い思いをしながら返答する。察しが良いとこういう時に困る。上手く誤魔化せない。
「そう思ってたけど、任されたから」
「一人で? 今六時だけど」
「案が思いつかなくて。まあ、上手くやるよ。資料はありがとう」
彼がどれほど絵が上手いのかは知らなかったが、藝大の油画に行くと言い切るだけの自信はあるはずだった。だからこそ、ここで都合良く彼を引き止めるのは違う気がした。それは自分が周りに求められてきたことで、それの積み重ねが、人を軽くさせる事を身をもって知っている。
「やらなくて良いんじゃないの。誰の仕事でもないものを引き受ける必要はないと思うけど」
「頼まれたし、了承したから」
彼は正しい。正しいが、自分の生き方では、それにはなれない。
軽く息を吐いた。不必要な責任を抱えて完璧に生きていくには、自分は大人にはなりきれない。
「まだ何も決まってないんだよね?」
どこか呆れたような口調でチョークを取られ、少し眉を顰める。多分彼は、案が無いことではなくて、人を頼らない事に呆れている。それがわかるから、苦い。
削られる事の痛みは、最も近い場所にいる人間に吐き出してしまいそうになる。しかし、彼に当たるのは違うな、と思い直し、瞬きで誤魔化した。
朝日奈は特にそれには反応を示さず、黒板を見ながら少し考えた後、迷わず線を引き始めた。数分でお洒落なフォントの下書きが完成したところで、彼は一度手を払い、チョークを置いてから教室を出ていく。
下書きはしたから後はやれよ、という意味なのか、ただ手を洗いにいっただけなのか、ひとまず手伝ってくれた事には変わりないので、彼が残していった下書きを少し眺めてから色を塗る事にした。
油画に行くと言っていたのもあって独創的な何かを描くのかと思いきや、カジノの雰囲気に合うように筆記体で描かれたクラス名と、出し物の軽い説明がこれもまた雰囲気を壊さない程度に描いてあり、器用なんだな、と思った。
見惚れつつも色塗りを進めていると、話し声と共に教室の扉が開いた。帰って来たらしい朝日奈が、二人と話しながら教室に入ってくる。「だからこれ、ちょっと悪いんだけど手伝って欲しくて」「もちろん! これいいね、絶対明日行く」「小鳥遊、一組だったんだ」「そう、理系だから」
え、と呆気に取られていると、夏目がジュースを片手にひらひらと手を振っていた。
瞬きをしてその場で固まる自分を見て、不思議そうな顔の朝日奈が口を開く。
「去年同じクラスだった二人。七組に残ってたから来てもらった」
「良かったの? というか朝日奈は帰ったのかと」
「炭酸二本で買収ってとこかな。流石にここで帰るのは人の心が無さすぎる」
炭酸には抗えなかった、と笑う知らない男子生徒に軽く挨拶をしてから作業を再開する。意外と人脈があるんだな、と少々失礼な事を思いながら、彼らの雑談を小耳に色を塗っていく。「小鳥遊、これどうやって塗ったらいい」「適当でいい」「こっちは」「センスで」「見てないだろ」「見てないね」
ケラケラと笑う夏目の声を聞きながら、朝日奈の前の名字が小鳥遊である事が正しいのだと理解する。彼はそれを咎める気もなさそうに軽口を叩きながら手を動かしていた。
意外に笑うんだな、と思いながら、自分が場を回さないのが久しぶりで、それが少し嬉しかった。彼は、肩書きのある有栖川真琴を必要としない。
四人いればあっという間にそれらしい仕上がりになり、ものの三十分もしないうちに最後の課題は終わりを迎えた。
「有栖川。こういうのは、手伝って、って言えばいいよ」
七組の雑談に戻るわー、と空のペットボトルを持ちながら去っていく二人を横目に、軽く目を細めた彼が言う。
責めるでも憐れむでもないその温度が、嬉しかった。
「ありがとう」
小さく呟く。彼は微かに笑って、鞄を肩に掛けた。
「こちらこそ」




