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鯨は嘘を探さない。

 六月の初め。文化祭のクラス展示の案がカジノになった。恒例の出席番号で役割が決められるシステムにうんざりとしつつも、買い出し役を引き受ける。

 レシート貰い忘れがないようにしないと、と思いつつ朝日奈と共に教室から出る。前から二人が実行委員で、その次の自分たちが買い出しを任された。いつもの流れだった。実行委員の二人にも同情する。彼らも名字の被害者だった。


 あれから朝日奈とは少し仲良くなった。仲良くなるというのが正しい表現なのかは分からないが、朝日奈と話す時の自分は少し声が低く、彼は声色が少し柔らかかった。


 彼は相変わらずホームルームには出なかった。朝はもう無理だと見切ったらしく、「返却とかの他のことは俺がやるから、提出はお願いしたい」と言われた。理由を訊いたら答えてくれるかもなと思ったが、訊かなかった。結局日直は二人でやって、返却を朝日奈が、回収を自分が担当することで落ち着いた。


 自分から話す事が殆どなかったが、彼は意外とわかりやすかった。迷う時、微かに伏せて下を見る。笑う時、少し楽しそうに目を細める。驚いた時、軽く目を見開いてから、瞼を閉じる。

 

「わかりやすいってよく言われない?」


「いや、初めて言われたけど」


 他の教室から聞こえる楽しそうな声をBGMに、階段を降りて校舎を抜ける。騒がしい所が特段嫌いなわけではないが、ムードメーカーの有栖川真琴を求められる空間が少し苦しいのは事実だった。学年が上がるたびに、責任が増える。中一で許されたミスも、高二ではもう許されない。


「文化祭、家族来るの?」


「多分来ない」


 何となく訊いた質問は即答された。間違えた、と思った。

 今までは自分だけが普通ではなかった。姉がいる、と嘘をついた。お姉さんの名前は、と言われて答えをはぐらかした。姉はもういない。顔も知らない。両親は姉の話をしない。

 ただ、生まれてすぐに亡くなった、と。本当なら姉に「真琴」と名付ける予定だった、と。

 自分だけが変だった。だから、答え方にさえ気をつけていれば良かった。しかし今、明確に彼の一線を越えた。


 心地良かった。自分の気遣いを必要としない朝日奈葵月が。

 心地良さは緩みになる。緩みは、越えないように気をつけるべき線を簡単に越える。


「……ごめん」


「何が?」


「いや、家族のこと。訊かれたくなかったかなって」


 彼は少し目を伏せて下を見た。迷っている。薄手のカーディガンが風に靡いた。


「名字の話なら隠してる訳じゃない。来て欲しい訳でもないし」


 気にしなくていい、と言う。自分が周りに与え続けた優しさという名の気遣いを、彼は同じようにこちらに返す。

 それが多少口下手なのもあって、調子が狂う。やはり、全て見透かされているような気がした。自分の薄さも、狡さも、全部。

 何も言わないこちらを見て、彼は続ける。


「……そうやって、人に気遣ってばかりだと、しんどいよ」


「まあ、慣れたし、意外と悪くないよ。人に慕われるのも」


 朝日奈はこちらを見て、何かを言いたそうな顔をした後、そう、と呟いて目を逸らした。



***



 学校の近くのディスカウントストアに入り、必要なものをカゴに入れる。

 他クラスの生徒も来ていたようで、女子生徒と出会った。去年朝日奈と同じ七組だったらしく、面識があるようだった。軽く何をするかを話しながら店を出る。夏目日和という名前の彼女は一人で来ていた。ついでなので荷物を手伝うことにして、軽い自己紹介と雑談をしながら学校に戻る。


「ごめんね、荷物手伝わせちゃって」


「いいよ、手空いてるし」


「一組って何するの? 」


「模擬カジノ」


「へえ。楽しそう。当日遊びに行こうかな」


「七組は?」


「射的にはなると思うけど、クラス、まだまとまってなくて。でも買い出し行かないと間に合わないからさ」


 今ちょっとクラスが荒れてて、と夏目は困ったように笑った。

 クラスの中で喫茶店をやりたい一部の女子の声が大きく、ある程度総意の射的にするのか、一部の声を聞いて喫茶店にするのかで揉めている、との事だった。


「大変だな、でも総意は射的なんでしょ? 」


「多分。確認はしたけど、買ってきたのは私だから、責任が重くて嫌だなあ」


 はあ、と溜息を吐く彼女を横に、三人で校舎に戻る。

 下駄箱。廊下。教室。

 三日後に文化祭があるという事実にまだ実感がない。明日は文化祭準備、明後日は校内祭。明々後日、文化祭当日。


「ありがとう二人とも。何かあったら頼ってもいい?」


 騒ぎ声の響く七組の教室から、夏目が眉を下げてこちらに顔を向ける。まただ、と心の中で溜息を吐いて、仕舞い込んだ。

 違和感は綻びになり、綻びは亀裂になる。亀裂はいつか、全てを壊す。

 自分の生き方はきっと、あまり良くない。薄い一枚板の上で、何とかバランスを保っている。誰もそれを知らない。壊れた時に初めて、壊れたと気付くのだ。そして、壊れた時に手を差し伸べてくる人間はきっといない。


「勿論。そっちのクラスも頑張って」


 じゃ、とひらひらと手を振りながら一組の教室まで歩く。

 朝日奈は何も言わない。ただ見ている。自分が人に手を差し伸べて、薄く軽く生きている事を、彼は見ている。



***



「お、有栖川。買い出し終わったの?」


 教室に戻ると、五十嵐に声をかけられた。軽く笑って返答する。


「終わった。足りないものはなかったと思う」


「ナイス。お前がいないと全然進まなくてさ」


 五十嵐はそう言って、机に腰掛け、膝を組んだ。文化祭前ならば、こういうことも許されている。

 買い出しに行っていた間に、机や装飾の大まかな配置や、当日のシフトがある程度決まっていた。勿論出席番号順で。この教室は名字に物を言わせすぎている。


 比較的スムーズに進んでいるが、こういうのはやはり、やってみないと何が起きるかはわからない。

 いくら自分たちで作る文化祭だからといって、少なからずある程度は浮かれている。完璧に見える予定も、ふとした時に粗が見える。それを知っている。その粗を上手く隠すのが自分の仕事だった。


 二組はお化け屋敷するらしいよ、と水無瀬がこちらに近付いてきて、軽い雑談が始まる。

 適当に相槌を打ちながら、文化祭の事を考える。姉は来ているのか、と訊かれるだろうな、と思う。大学で忙しかったみたい、とお決まりの台詞を返そう、と決めた。少しそれが苦しかった。



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