鯨は海を語らない。
高校生にとって、進路はかなり繊細な問題だった。人には色々な選択がある。
しかし、その中で周りと違う選択をするには勇気が必要だった。人に言うならば、それよりももっと。
「有栖川はやっぱり工学系? 建築なんでしょ?」
「まあ、そうなるかな。美術系からも行けるらしいから、その辺を見に行こうかな。五十嵐は?」
「俺は農学系かな」
「へえ。私は迷い中。でもまあ、医学部かなあ」
五月。学校内の資料館で進路について各自で調べる授業があった。友達同士ならある程度話す、自分の進路のこと。
五十嵐や水無瀬と共に過ごす事が多くなったが、藝大の名前は言わなかった。
東京藝大、美術学部建築科。
馬鹿にされると思ったわけではない。多分彼らは応援してくれるだろうけれど、建築系と言った時に、当たり前のように工学部や建築学部の名前が上がる環境で、藝大の名前を出すのは少し億劫だった。お前らしくない、という言葉が、微かに怖かった。
彼らが悪い訳ではない。ただ、少しずつ、自分が周りから削られている事には自覚があった。頼られているのか、便利に使われているだけなのか。実際どうであれ、疑うための理由は十分にあった。それが答えだった。
部活、進路、人間関係。
高々十数年生きただけの子供には、全てを上手く回していく事はできない。特に自分のような、人間関係を荒立てない気遣いをし続ける人間には。見えない責任は学年が上がるにつれ、重くなっていく。
「じゃあ俺、あっちの方見にいくから」
無機質な資料館の中で二人に別れを告げて、本棚を見渡す。
東京藝大。迷いなくそれを探した。数式からではなく、美術の視点で建築を学びたかった。
「朝日奈……?」
相変わらず殆ど色味のない服に、感情のない表情。
彼は手元の何かをパラパラと軽く捲っている。
こちらに気付いたのか、彼は顔を上げた。持っていた冊子の表紙に東京藝大と書かれていて、思わず息を呑んだ。
全然気付かなかったけどかなり顔が整ってるな、と訳の分からない事を思いながらおずおずと声をかける。
「それ、藝大?」
「そう」
彼は真っ直ぐこちらを向いて答える。ただ肯定しただけの返答。そこにそれ以上の温度がない。
彼は何かを言うこともないが、目線を外す事もしない。ただ、言葉を待っている。
ふと、朝日奈になら言っても良いかな、と思った。ただの勢いだと言われればそれまでだが、彼は自分を、ずっと肩書きのない有栖川真琴として見ていた。五十嵐も水無瀬も、きっとムードメーカーで優等生という肩書きを持つ自分だから課題の質問をした。先生も、ある程度何でもこなせる有栖川真琴だから雑用を任せた。
そういう風に過ごすのが当たり前の場所で、彼だけは、遅刻しないからという理由で自分を頼り続けた。
遅刻しない人間なら、きっと自分じゃなくても良かった。それが、嬉しかった。
彼は、クラスのムードメーカーを求めていない。自分の気遣いでできたこの肩書を利用しない。
理由こそわからないものの、彼は、朝礼に間に合わない自分の代わりに課題提出をしてくれる人間であれば良かった。そこに、肩書を持つ有栖川真琴であるべき理由がなかった。
ただ、学籍番号が隣同士だっただけ。あまりにも淡白なその態度が、初めて自分を、どこにでも居るただの高校生にした。
「嫌だったら良いんだけど、訊きたい事があって」
「うん」
「俺も藝大行きたいなって思ってるんだけど、何から始めたら良いかわからなくてさ。朝日奈はどうしてる?」
勝手に彼を藝大志望だと決めつけて話したが、彼は否定しなかった。ああ、と呟いて、軽く首を傾げる。
「学科による。どこ志望?」
彼になら言えると思った。自分が藝大の建築を目指していること。無謀な挑戦ではあるものの、それが自分の選択だということ。
「建築学科」
「あー……それね、犀川先生に訊いた方が確実かな。実技、ちょっと癖があるはず。必要なら伝えておくけど」
「犀川先生? あの、非常勤の美術の?」
「そう。先生、藝大卒なのと予備校やってるから詳しい」
「お願いしていい? あ、あと誰にも言わないで欲しい。友達にも言ってないし、言うつもりもなくて。勿論朝日奈の話もしないから」
友達にも言ってない、という言葉を彼がどう解釈したかは分からないが、彼は特に何も気にする様子なく続ける。
「進路だからね、言わないよ」
「助かる。……言いたくないならいいんだけど、朝日奈はどこ志望なの?」
「俺? 俺は油画に行くよ」
彼は軽く笑いながら、あまりにも簡単に口にした。油画に行く、と。最も倍率が高く、学力が見られないとまで言われる、才能の巣窟である藝大絵画科油画専攻に。
そして、その一言は、自分は油画だけど、お前は建築だな、とも言っていた。彼の中で、落ちたらどうしよう、という迷いがそこになかった。
彼は、彼自身だけでなく、自分も建築学科に受かる事を無条件に信じていた。
正しくは、藝大に受かる事ではなく「有栖川真琴」を。
彼は他のクラスメイトとは明確に違っていた。滅多に自分から話しかけず、友達が多い方でもない。
何か事情があるであろう遅刻の事も、教師に頼る素振りもない。
そして、彼は、自分を便利に使わない。
彼はきっと知らない。この時自分がどれほど救われたのか、肩書きのない有栖川真琴として見てくれる事がどれほど嬉しかったのか。
彼が知ることはないけれど、自分は、これをずっと、覚えている。




