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鯨は人を使わない。

 五月。高校生活は順調に進んでいた。

 クラスメイトと仲良く話し、明るくて頼りになるムードメーカー。多分、自分はそう見られていた。

 それで良かった。何でも難なくこなす。成績も悪くない。優等生でありつつ、人当たりは良い。人並みの責任感がありながら、たまに抜けているところもある。


 それが自分の名刺だった。周りから見た有栖川真琴は、そういう人間だった。

 姉がいそう、という言葉に一つ呼吸が遅れて返事をする事も、建築系目指すならなら建築学部だよね、と言われた時の少し逸らした目線も、誰も気付かない。


 本当は、と言う必要もなかった。周りにとって自分は有栖川真琴ではない。ただの、困った時に頼りになるクラスメイト。それで良かった。良かったと思う事にしていた。

 それが暴かれる事は、有栖川真琴の死を意味していた。意味していると思い込んでいた。

 少なくとも、高校生の自分にとって教室は世界の全てだった。ただそれだけを、守っていた。


 五十嵐とは上手く付き合い続けていた。彼は噂好きで、根も葉もない話をよく持ってきていた。適当に相槌を打ちながら、流されるままに水無瀬とも話すようになった。

 水無瀬柚。明るくて、社交的な、リーダーの様な存在。水無瀬からたまに入る女子の噂を聞きながら、右を向いて教室の全体を見渡す。


 自分はずっとクラスの中心に居た。女子から呼び出されて告白されたり、先生から細々とした雑用を任されたり、とにかく、自分の肩書きが歩いていくのをどこか他人事のように見ていた。

 同時に、朝日奈葵月はそうではなかった。彼のような寡黙で言葉を選ぶ人間は、歩く肩書で人を判断しない。それは経験則でもあったが、彼は必ず、クラスのムードメーカーを呼ぶ声ではなく、有栖川真琴を呼ぶ声でこちらを向いた。


 同じ十六年生きているクラスメイト同士でも、行動の判断基準はそれぞれ違う。

 距離の取り方、話し方、声色、表情、伝え方。

 自分は多分、高校生にしては役を買いすぎていた。ただし、それが遂行できるくらいには大人だったし、完璧に役を演じる事ができないくらいには子供だった。

 多分、朝日奈葵月だけは、それを見ていた。





 ある日、物理のプリントを忘れた。スマホに写真を撮っていたかどうか確認して、そこまで几帳面ではなかった自分を軽く恨む。五十嵐は生物選択なので、既に教室には居ない。

 先生にプリントを忘れた事を言おうと思ったが、わざわざ言うほどの事ではなかった。内申に響いても困る。


 仕方なしに、朝日奈に声をかける。彼に話しかけるのが苦手な訳ではなかったが、彼は自分をムードメーカーとして見ていない。それが少し嬉しくて、やっぱり怖かった。自分の化けの皮が見破られている。彼はそれを言いふらす事はしないが、あの真っ直ぐにこちらを見透かすような瞳を見ると、どこか落ち着かない気分になった。


 プリント見せて、と言うと特に嫌がる素振りもなく渡された。写真を撮って礼と共に彼に返す。

 一瞬、目が合った。淡いグレーの瞳に、淡く滲む青。


「ありがと」


 うん、と目を伏せて彼は小さく返答する。

 それは、初めての友達としての会話だった。出席番号の繋がりでも、同じ物理選択の繋がりでもなく、朝日奈葵月と、有栖川真琴の会話だった。

 彼は普段よりも柔らかい声色で。自分は普段よりも低い声で。


「朝日奈」


「なに?」


「いやごめん、やっぱなんでもない」


 彼から話しかけられる事は殆どなかった。必要最低限のやり取りに、殆ど変わらない表情。

 それは、どこか何でも屋と化していた自分を、便利に使わない事を意味していた。

 

 やっぱり、それは、少しだけ嬉しかった。







「有栖川、帰ろうぜ、ついでに数学教えて」


 五十嵐の声で顔を上げた。定期考査前の放課後。自分の勉強もしたいが、ここで断る選択はない。


「いいよ、どれ」


 こうやって「いいよ」と言う度に、自分を見失っていくのだな、と思う。五十嵐に悪気はきっとない。ただの友達として、会話している。しかし、小さな嘘を吐き続けて、全てを上手く回しているからわかる。きっと五十嵐は、数学がわかるようになればそれでいい。

 こんな事を考える自分に嫌気が差す。それがきっと真実である事が、余計に。


 教室に水無瀬が入ってきて、「何してるのー」と問う。ラケットを片手に持っていて、どうやら部活の前に教室に寄った様子だった。


「有栖川に数学教えてもらおうと思って」


「え、いいな。今日の部活どうせ休むし、私も聞きたい」


「いいよ、どの問題?」


 一緒に帰って道中の喫茶店に行く事になれば、本当に自分の時間が無くなるので、それとなくこの場で全てを終わらせる。それが一番、場を荒立てない事を知っている。五十嵐も水無瀬もそれに気付かない。それでいい。


 ありがとねー、という軽い言葉を聞きながら、これが青春なのかもな、と思う。

 夕陽に照らされる黒板。ノートとシャーペン。響くチャイムの音。



 日常の中の、少しの非日常。

 これが青春なら、自分には少し息苦しい。

 


 

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