鯨は声色を選ばない。
四月中旬。クラス全体がある程度打ち解けてきて、名前を覚え始めてきた頃。
相変わらず朝日奈は不定期で遅刻していて、一限には間に合っているものの、ホームルームは飛ばしている事が多かった。
担任も特別それに怒る様子はなかった。それは、放任主義というよりも、何かの配慮のようにすら見えたが、どちらかはわからなかった。元々放任主義が強い学校で、制服も無ければスマホも校内で自由に使っていい。真実は制度に隠されていた。
課題の提出期限は一限が始まるまでの事が多かったため、仕方なしに一人でノートを運ぶことが多かったが、別に怒るほどの事ではなかった。たまに五十嵐が手伝ってくれていたし、朝日奈も仕事ができなかった日には謝ってくれていた。相変わらず顔は無表情だったものの、そういう細かな雑用を、日常が綻ばないように終わらせておくのは自分の得意な事でもあったので、そこまで気にしていないのが本音だった。
家庭環境、起立性調節障害、学校と家の距離。考えられる理由は沢山ある。
自分から朝日奈に文句を言うことはなかったし、彼もそれに甘えている訳ではなさそうだったので、追求はしなかった。
ただ、たまたまうまく噛み合わない時がある。
その綻びの目は摘んでいたはずだったが、人間は完璧ではない。もちろん自分も。
遅刻した。数学の課題提出の日に、自分も朝日奈も居なかった。
たまたま数学の教師の機嫌が悪かった。理由はわからないし、多分生徒は直接関係ない些細なことだとは思う。しかし、放課後に呼び出された。数学教師というのは、大体期限を守らない人間を嫌う。それが、何かの拍子に崩れると、どこに矛先が向くかは想像に難くない。
説教自体は別に大した事がなかった。二人いるのにどちらも遅刻するとは何事だ、と、そんな内容を言われた。頭ごなしに叱られた訳でもなく、ただ正しいことを言われた。すみません、と軽く謝る。
朝日奈は謝らなかった。ただ、「考えます」と一言。
こういう時は理由がどうであれ謝っておくべきで、例えそれが人に言えない事情があっても形式を守っておけば良い。世渡りはそういう小さな嘘でできている。
そして彼は多分、それを選ばない。担任は彼の遅刻に何も言わない。数学教師はそれをきっと知らない。
数学教師は少し眉を顰めて溜息を吐き、責務は果たせよ、と残して職員室に消えていった。
「ごめん、多分、出来ない」
教室までの廊下で彼はそう溢す。無表情の中に、少しだけ目を伏せて。
遅刻は謝らないが、迷惑をかける事には謝る。彼の線引きだった。
そこに何の違いがあるのかはわからないが、多分彼は、そういう人間なのだろうと思った。自分がどう見られるかを考えていない。先生に事情を言えば、相応の配慮をしてもらえるはずで、しかし彼はそれをしない。それは、責務という正しさで自分を裁いているようにすら見えた。
「別に良いよ、気にしない」
彼はそのまま軽く瞬きをした。何も返答はなかったものの、それで良かった。思う事全てを口に出さない人間はいる。多分彼はそうやって、言葉を選んで生きている。わかりやすい、と思った。自分の様に八方美人に生きていない。だから、彼の言葉には嘘がない。その代わり、不必要に何かを話さない。
放課後の教室に、人の気配はない。どこか作り話めいた雰囲気がある。乱雑に置かれたチョーク、机を照らす西陽、ロッカーに置かれたままの教科書。
「有栖川、帰ろうぜ。今日部活無かった。わざわざ中学校舎まで行ったのに」
鞄を取って帰る準備をしていると、教室の扉を開けて五十嵐がこちらを覗いていた。ちらりと横目で朝日奈を見る。彼は何も気にしていない様子で、スマホを手に教室の後ろの扉から出ていく途中だった。
まあ良いか、と思い、五十嵐に向き直る。
「高校の体育館じゃないんだっけ、バドミントン部って」
「そうそう。で、何の呼び出しだったわけ?」
「数学の課題提出遅れ。今日、俺ら二人とも遅刻したから、たまたま怒られた」
「ああ。朝日奈、ホームルーム基本居ないもんな。お前まで怒られたんだ、つくづく損な役回りだな」
「大した事じゃないよ、たまたま先生の機嫌が悪かっただけ」
廊下を歩きながら、雑談が流れていく。
高校生の会話は常に流動的だ。根拠のない噂も本当の事も、ただの雑談、という皮を被って広がっていく。
「何でホームルームだけ居ないんだろうね、お前も言えばいいのに」
「事情があるんじゃないの? 俺はあんまり気にならないけど」
「事情ね。そういえば聞いたわ。名字変わったんだって、水無瀬が言ってた」
「水無瀬?」
「そう、新高の。水無瀬は女バドだから去年から若干関わりがあるんだよね。言ってたよ、去年は朝日奈じゃなくて小鳥遊だったって」
「新高だったんだ、それは知らないわ」
「親、凄いお金持ちらしいよ」
何かが腑に落ちた。親の離婚、再婚、その他の自分一人ではどうにもできない事。
世の中はそういう事で溢れている。
それでも抱えて生きていかなくてはいけない。例え、どれだけ精神が未熟なうちでも。
世界は残酷だった。齢十七でそれを知るくらいには。
自分に降ってきたものは、受け止めて、進まなくてはならない。
自分の知らない、もういない姉のように。




