鯨は教室で笑わない。
学籍番号5104。
それが、これから始まる二年間の自分の全てになった。成績によって多少クラス変えはあるが、来年もほとんどこのクラスのまま教室だけが変わる。
去年は4101だった学籍番号が、今年は5104に変わった。「あ」から始まる苗字の人間が前に三人いる、ただそれだけ。
高校生活において、学籍番号は大きな意味を持つ。席順、班、係。
出席番号が早ければ早いほど、何かと駆り出される事が増える。去年がまさにそれだった。何度担任から「有栖川」と呼ばれたかわからない。
安堵の溜息を吐く。今年はきっと、去年ほど雑用をさせられる事はないだろう。
理系、成績上位四十人。掲示板に張り出された名簿を軽く見ながら、教室に向かう。
二〇一教室。窓側、前から四番目。丁度先生の目が一番薄い。未だにそんな事を考える自分に苦笑いしつつ、席についた。
スマホを触り、友人の五十嵐朔に席順を送る。去年彼は自分の後ろに座っていて、何かと係や雑用で行動を共にした。
『五十嵐、同じクラスだったよ。お前は学籍番号五番』
『まじか。やっと雑用から解放される?』
『たぶん。四番と五番だから、係は同じじゃないかも』
一番から二人一組で、宿題回収係にさせられるという教師の怠惰が許された学校で、とことん名字が有栖川の自分を呪ったが、去年は五十嵐と友達になれたので、まあ良しとする。
続々と生徒が教室に入ってくるのを横目に、一学年七クラスあると知らない顔も多いな、と小さく呟いた。
朝礼が鳴る頃には教室が生徒で埋まっていた。自分の一つ前の席を除いて。
「お前の前、だれ。新学期早々遅刻?」
後ろから小さく五十嵐の声が聞こえて、ちらりと後ろを見ながら返答する。
「朝日奈って名前らしい。知らない」
「ふーん、お前顔広いのに、知らないなんて珍しいな」
「結構知らない人多いよ、今年から新高も混ざってるらしいし」
「え、そうなのか。道理で全然知らない人いるなって」
中高一貫のこの学校では、新高と呼ばれている高校から入学した人たちだけのクラスが去年はあった。誰の心変わりか、今年からは一律で理系文系の分け方に変わった、と風の噂で耳にしている。浅く広い人付き合いは、情報が早い。
知らない人と話すのは苦手ではない。かなり陽気な方だという自負はある。だからきっと、自分の前の生徒が初対面だったとしても、ある程度仲良くなれるだろうと思う。しかし、これから二年間一番多く協力する必要があるであろう前の席の生徒は、全校集会の最中にも現れなかった。
全校集会も終わり、ホームルームで係の説明がされる。
学籍番号の前から二人一組で、国語、数学、理科、社会、英語、の課題回収を担当してください、という去年も聞いた教師の声を聞きながら、窓の外をぼんやりと眺める。
特に自己紹介をすることもなく、友達作りは勝手にやれと言わんばかりに、ホームルームの終わりをチャイムが告げた。
先生が出ていくと、すぐに教室の中は軽い自己紹介で埋め尽くされる。ちらりと後ろを見ると、五十嵐は既に彼の後ろの席の人と話していた。
係が決まっている出席番号が早い生徒たちは、前後でまず自己紹介するよな、と思い、少し目を細めて前を見る。
朝日奈葵月。名前だけは確認したが、性別が微妙にわからない。自分自身が何度も女子生徒だと勘違いされているので、女子だと決めつけるには早いことを身をもって知っている。
可愛い女の子であれ、と軽く願いながら、しかし初日に来ないとなると印象はあまり良くないので、どうしたものかと溜息を吐いた。
なんとなく壁に身体を預けてぼんやりと過ごしていると、教室の扉が開いた。
無彩色の服。整った顔立ちに、焦る様子のない無表情。
背中を軽く叩かれ、五十嵐の声が聞こえる。
「有栖川、あれ、誰」
「俺も知らない。新高?」
少し教室のざわめきが大きくなる。彼はそれを気にする様子もなく、教卓の上の席順を見てから、自分の前の席に鞄を置いた。
挨拶の一言でもかけようかと思ったが、彼はそのまま席を立って教室を出て行った。職員室に入室届を貰いに行ったのだろうが、急ぐ様子もなければ無駄な動きもない。遅刻しているのにも関わらず動作に余裕がある。
どこか無機質で、浮世離れしている。睨まれているわけではないのに、なぜか目が合うと手を止めて彼の方を見てしまう。
彼の最初の印象はそれだった。
多分自分とは合わない。ああいう、硬派で無口そうなタイプは正直あまり得意ではない。
毛嫌いする事もないが、自分のような広く浅い交友関係を持つ人間には、そもそもああいう人間は近寄ってこない。今までで得た知見は、彼のおおまかな性格を理解するのに難くなかった。
どうせなら五十嵐のような、噂好きの軽い生徒の方が付き合いやすいのにな、と思いながらも、あくまで全ては推測なので、考えすぎるのも良くないな、と思い直した。
窓から見える桜の散り様を見ながら、これからの二年を考える。
桜は答えない。
教室のチャイムも、生徒の話し声も、担任が黒板に書く文字も、何もかも、返答を寄越さない。
ただそこにあるだけ。ただそこで、待っているだけ。




