鯨は憧憬に染まらない。
八月。夏の間はずっと犀川先生の所で絵を描き続けた。苦しかったし、悔しかったけれど、やっぱり嬉しかった。
絵しか見ない、自分の性格や肩書を必要としない場所が、こんなにも楽しいとは知らなかった。
自分や夏目を筆頭とするその他の生徒たちは主に二階で鉛筆と格闘していた。朝日奈は鉛筆デッサンを殆どしないらしく、油絵の具も使うからという理由で一階で絵を描いていた。自分たちが汗水流して絵と向き合う中、彼だけはずっと涼しげだった。しかし、キャンバスを前にした時に、彼の瞳はいつもより少し鮮やかになる事を、自分は既に知っていた。
生徒全体で同じモチーフを使って鉛筆デッサンをする時は、朝日奈も二階に来てイーゼルを置いた。
飛び抜けて上手かった。素人目でもわかる、今まで描いた絵の数の圧倒的な違い。
彼の絵はずっときれいだった。
講評でも常に文句なしの一位だった。
夏の間、ずっと描き続けて自分と向き合い続けているのもあり、周りの弱音を聞くことが増えた。普段鉛筆デッサンをしない朝日奈が、常に一位だったのも起因していた。「才能が」「向いてないのかもなって思う時もあって」「上手くなってるのかな」そういう声を聞くたびに、つい自分も釣られて溢しそうになったけれど、意地で言わなかった。自分が一番下手だったから。たまに真ん中の方の順位を貰うことがあったが、殆ど下位だった。だからこそ、絶対に弱音は吐かないと決めた。
段々と苦しくなっていく自分に気付いていた。絵も、人間関係も。
結局、コミュニティである以上人付き合いは必要だった。
弱音は雰囲気となって伝染する。伝染した雰囲気は、徐々に人を蝕んでいく。苦難の中自身の絵と向き合い続ける必要がある今、その芽を摘む余裕はあまりなかった。
才能という言葉が、形を変えて少しずつ人を蝕んでいく。
芸術とは、そういう世界だった。
八月末。
先生が不在の中、夏目が途中で泣き出して、それに釣られた高三の他の生徒も釣られて泣き出した。切羽詰まっている。どうしようもないので彼らは今日は帰って休む事になり、先生の旦那さんが駅まで車を出す事になった。
夕方四時。室内に一人。西陽が少し痛くて、なんだか、自分まで泣きたかった。泣くわけにもいかなかったので、無理矢理鉛筆を握る。
あと一年半以上、この緊張感と苦しみの中で絵を描き続けなくてはいけない。手に力が入った。デッサンをする時の力ではなかったけれど、鉛筆を手放したら全てが壊れる気がした。
「有栖川」
名前を呼ばれて顔を上げる。穏やかな声。感情を乗せない、ただの有栖川真琴を呼んだ声。
「一回休んだほうがいい。削られすぎているように見える」
壁に背を預けて、朝日奈がこちらを見ている。名前を呼んだ時とは違って、どこか困ったような声色だった。
彼はやはり、有栖川真琴という人間を見ている。肩書を持たない、ただの高校生の自分を。
「……才能ってあると思う?」
何故これを言ったのかはわからない。弱音だったかもしれない。
彼は自分の気遣いを必要としない。必要以上に話さず、しかし嘘はない。だからこそ、訊きたかった。
「ない」
朝日奈はこちらを見て、真っ直ぐにそう言った。才能はない、と。
それは世に蔓延る努力論だったが、そこに努力の押し付けはなかった。
「これからも努力を続けたら、俺も皆みたいに上手く描けるかな」
彼は少し考えてから言う。非難も鼓舞もない、ただ真っ直ぐに、自分の意見を伝える声で。
「才能っていうものはないけど、与えられた時間の違いはある。俺は小学生の時からずっと絵を描いていたけど、有栖川は高校からだから、その差の六年くらいは時間をかけないと、少なくとも俺と同じような精度では描けない。ただ、俺が何もわからずに適当に線を引いていた六年を、座学とか練習の質で縮める事は出来ると思う」
「そっか」
「自論だけどね。……なに、才能がどうだとか言われたの?」
「いや。……なんだろな。ただでさえ、俺が一番下手で。なのに藝大とか目指して良いのかな、って。俺が藝大目指してるのは国立だからっていうのもあるし。だから、なんかその、意思が弱いんじゃないかなって思ったりしててさ。そういうの思う事ある?」
自分の口から出た言葉が弱音だと確信を得るのに時間はかからなかった。彼は常に、何にも肩入れしない。真っ直ぐに生きている。
だから自分のようにクラスの中心になる事はない。しかし、人を便利には使わない。
それは、抱えていた事を伝えるには十分な理由だった。
「大学を目指すのにそんな高尚な理由はいらないと思ってるよ。俺は絵が描けさえすればいいから、極論、藝大じゃなくても、美大じゃなくてもいい。でも藝大は国立だし、レベルが高いところに身を置く事が出来る。それだけ。落ちたらその時だし、特に油画なんてどうしても先生の好みとかもあるからね、受かったら通うし、落ちたら別のこと考える」
帰ろう、と言って彼は扉を開ける。自分が今どんな顔をしているのかわからないが、彼はそこに言及せずに続けた。
「だから俺には、藝大じゃないと嫌だ、みたいな熱意はない。そもそも、入試は大学への思いで判断しないから、熱意の有無に優劣はないかなって。教授の前でどんな絵を描くか、ただそれだけ」
蝉の鳴き声が響いている。彼の言いたい事がゆっくりと喉に入ってきて、時間をかけて飲み込んだ。
肯定も否定もしない、やれる可能性はある、という事実だけの淡泊な温度。しかし、それが自分を救うには十分だった。
こちらを向いた彼の瞳を西陽が照らしていた。淡いグレーの瞳が少し金に輝いていて、それがきれいだった。
ありがとう、と小さく呟く。聞こえていたかはわからないが、彼は微かに笑ったような気がした。
駅の自販機は相変わらず水が売り切れていた。彼はそれを見ながら、今度は少し楽しそうに、ブラッドオレンジのボタンを押す。気に入ったのならよかった、と思いながらその指先を見る。彼はわかりやすい。
この時、橙色のペットボトルの意味を正しく理解していなかった。
私立の理工学部に入学すると決まった時、酒に任せて出会ってからの二年間を夜通し語り合って初めて、水がない、と伝えた無機質な温度の意味を知った。同時に、自分が彼に一方的に救われ続けていたわけではない事も。
名前のこと、家族のこと、友達のこと、今まで生きてきた方法のこと。
何もかも違う自分と彼は、ほんの少しだけ、どこか似ていた。




