鯨は名前を忘れない。
九月。体育祭。太陽が眩しい中、他クラスの生徒がトラックを走る様子をぼんやりと眺める。
少しだけ、五十嵐と話す回数が減った。仲が悪くなっただとか、友達じゃなくなったとか、そういう話ではない。ただ、ほんの少しだけ、周りには悟られない程の小さな距離を取った。
絵が描きたかった。やれる可能性があるなら、その分努力を惜しまないようにしたかった。
だから、去年は五十嵐と出たリレーを、部活を辞めているから、という理由で今年は断った。五十嵐は気を悪くする様子もなく、他の友達を誘いに行った。体育祭だけは名字に物を言わせない担任は、意外と生徒を見ていた。
「有栖川、なあ」
リレーを終えて、クラスのブースに戻ってきた五十嵐が、こちらを呼ぶ。どこか真剣な声色に少したじろぎつつも、返答を返す。
「なに?」
「おまえ、お姉さん居るって本当? 嘘?」
さっき有栖川のお母さんに出会ったんだけど、と彼はこちらを向く。まるで嘘を暴こうとする正義の面をした探偵のように。
背筋が凍った。視界が霞む。両親は無闇矢鱈に何かを話す人ではない。自分が姉がいると言ったように、母は多分、姉はいないと嘘をついた。穏便に済ませるために。事を荒立てないように。
「嘘付く理由がないじゃん、何言ってんの」
いつの間にかテントに戻ってきた水無瀬が顔を出した。ケラケラと笑う冗談混じりの口調が今は痛かった。
ずっと肩書きに削られていた。ゆっくりと、皮膚を一枚一枚捲られていくように。
今まではそれが普通だった。ただ、一人だけ、自分を肩書きで見ない人がいる事を知ってしまっていた。だから余計に、削られるのが痛かった。
違和感は綻びになり、綻びは亀裂になる。亀裂はいつか、全てを壊す。
文化祭の時と同じ。もしくは、もう既に壊れていたのかもしれなかった。
「あー、姉は死んだんだよね」
口に出すと簡単だった。え、と目を見開く五十嵐の顔に、様々な感情が見えた。驚き、興味、配慮。
ごめん、と微かに呟く声に蓋をする。その声が未だに懐疑的なものを含んでいる事に気付かないほど、鈍感ではない。結局、自分たちはどこまでいっても大人にはなりきれない。純粋な好奇心が物語を欲してこちらを見ていただけだった。
「最近の話じゃない、生まれてすぐに亡くなったと聞いてる。なんて言えばいいかわからなくて、適当なこと言ってた、こっちこそごめん」
水買ってくる、とその場を離れた。話を聞いていた五十嵐や水無瀬の顔は見ていない。
競技に出ていなくて良かった、と思った。暫く顔を出さなくても、誰も気付かないだろう。中学校舎の奥の自販機で、スマホを翳す。
ガチャン、と無機質な音と共に水が落ちた。ペットボトルの水はプラスチックに囲まれて溢れない。それが憎らしいとさえ思った。理由はわからなかった。わからなかったけれど、痛かった。太陽は地面を照らしていて、テントの方に陽炎がゆらめいていた。数メートル先のそれを、どこか遠い国の事のような気持ちで見ていた。
有栖川真琴は、自分ではない。
この名前は、姉のものだった。色も、言葉も、温度も知らずに焼かれた命の名前だった。
真琴、と呼ばれるのが怖かった。下の名前で呼ばれる事を極力減らす努力をして、自分に一線を引き続けるために、有栖川真琴という何でも器用にこなすムードメーカーの皮を被った。中学の終わりを境に恋人を作るのを辞めた。それで良かった。それを守っていくべきだった。
そして高二の夏。その皮を被るのは、きっともう、限界だった。
その後どうやってその日を過ごしたのかはわからない。ただ、少しずつ自分の姉の事が薄く淡く広まっていくのは時間の問題だろうなと思った。表立って言われることはなかったが、こちらを見る視線に少しの憐れみや興味は含まれていた。そうやって、どんどん尾鰭がついて噂が噂を呼ぶ事を知っていた。その中でうまく舵を切って生きていた自分にとって、あまりにも見えていた展開だった。しかし、自分が渦中にいる時、どう動けば良いかは知らなかった。
高校生の会話は常に流動的だ。根拠のない噂も本当の事も、ただの雑談、という皮を被って広がっていく。
それから数週間経ち、十月になった。姉は物語になった。流氷の下で、ゆっくりと手渡されていく都合のいい悲劇の物語。
五十嵐や水無瀬の気遣うような視線も嫌だった。お前らが広めたんだろ、と言いたかったが辞めた。それをすると、今よりももっと都合のいい形になって、不特定多数に消費される事を知っていた。
自分から距離を置いたのか、彼らから置いたのかはわからなかった。ただし、少しずつ五十嵐や水無瀬との付き合いは薄れていった。雑談はするし、友達ではあったが、どこか遠かった。
彼らが悪いわけではないと思う。もしかしたら、そう信じたかっただけかもしれない。
でも、もうそれは何でも良かった。姉は物語になった。有栖川真琴の肩書きに、その物語が追加された。それだけが事実だった。
夏休み期間、毎日のように通った犀川先生のところには行き続けた。取り憑かれたかのように、何も話さずに絵を描いた。夏目や朝日奈がどこまで水面下の物語を知っているのかはわからなかった。
木炭や水彩、油画も触った。少しずつ絵が上達していくのがわかった。簡単な話だった。周りへの気遣いを減らした分、自分の目の前に集中出来ていた。ただ、それだけだった。




